第8話 罪は曲水流觴の様に ①

 それは言葉遊びだった。

 何かを救うとか、掬うとか、巣食うとか。

 どれもこれも、全て同じ意味だったに違いないい。

 心に巣食う罪悪感に苛まれたアタシは、軟い掌の上に掬うようにして、何かを救ってみせたかった。

 思えば一人の時間は、増えたような気がする。小山内と出会ってから、考えることが多くなった気がする。

 ずっと引き摺ってきた重苦しい影を、翳る心の色に合わせて目を逸らしたように。

 或いは、伽藍堂とした空虚な器にも似た、望まない足音の来訪に怯えてみたり。

 つまりは、それを自己救済だなんだと言い訳していただけなんだと、柊に教えられた。

 柊は、小山内の背負うモノの正体を教えてくれた。

 それは見てられないほどに、痛々しかったという。弱りきっているとか、病んでしまっているとか、そういうことではなく。

 そうなってしまうのが、最早正常なんだと思ってしまうほどに、小山内の心は壊れ始めているのだと。

 柊は、静かに語っていた。

 ——そんな話を聞いたアタシは。

 恐ろしく不躾で不明瞭な、それでも抱くべきではないことだけは分かりきっている感情が湧き上がっていた。



「……なぁ、ちょっといいか?」

 講義を終えて教本を鞄に仕舞い込む小山内に声をかけると、首を傾げた。

 まだ人は多い。

 迂闊に話すような事ではないが、それでもアタシは一刻も早く小山内と話をしたかった。

 勝手な思い込みかもしれないし、勝手な価値観の押し付けかもしれない。

 それでも、彼女を死んだ親友の呪縛から解放するのは、アタシの役目であって欲しかった。

「いいけど。何処か遊びにでも行く?今日はバイト無いし一日空いてるよ」

 午後の講義終わりなので、遊びの誘いだと勘違いした小山内はどうやら予定は無かったらしく、すんなりと首を縦に振った。

 ともあれ大学で話す内容では無いだろうと、アタシは小山内の勘違いを好都合に、落ち着いて話せる喫茶店へと誘うことにした。




 狡いな、と思う。

 これからの長い人生の責任を自分以外の誰かに負わせる生き方というのは、とても辛いことのように思えるが、同時にこれ以上なく楽な生き方であるようにも思えた。

 しかしそれを狡く思う自分も、もしかしたら何処か狂ってしまっているのかもしれない。

 小山内という一人の人間にそこまで深く想われている女性も、そこまで深くのめり込んでしまえる小山内も、少し羨ましい。

 アタシにはそこまで本気になれる何かがあっただろうか。

 まさか今になって小山内を肯定する訳じゃ無いだろうな——。

 アタシの中にある、一種の理性ともいうべきもう一つの自我がブレーキをかける。

 事情はどうあれ、死者にいつまでも拘るのは良い事では無い筈だ。

 それこそ、今度こそ小山内に関係ないと言われても、それこそ関係無い。

 偽善的だと何だと言われても、アタシは過去の罪を精算するために、少しでも善行を積んだのだと、自覚したいのだ。


「珍しいね、塚本がこんな所に連れてくるの」

 決して小馬鹿にしたような口調では無く、本当に珍しいと思っているようだ。

 チェーン店の居酒屋は二、三回行っているが、カフェバーのような場所は確かに初めて訪れる。

 時間帯的には丁度カフェからバーに移り変わるタイミングのようで、照明が仄かに調光されて暗くなっていた。

「ちょっと早いけど、酒飲むだろ?何飲む?」

「じゃあ、ピーチウーロンで。塚本はいつも通り、最初はビールでしょ?」

 すっかり小山内はアタシと酒を飲むことに慣れているようだ。出会ってまだ三ヶ月だが、家飲み外飲み合わせて、二桁は共に過ごしている。

 それを考えると、時間の割にはそれなりに濃い付き合いをしてきたとも言える。

 それは、小山内の懐にもう一歩、踏み込んでも良いという免罪符の様な気もしていた。

 お互いに飲むペースは一定だった。小山内はすっかり酒を覚えたようで、自分がどれだけ飲めるかを、理解している。

 もう少し小山内が酔ってから、と思ったが、ある程度冷静な思考が出来るうちに——そう判断して口を開いたところで、小山内がグラスの淵を指先で撫でながらこちらを見た。

 僅かにアルコールで濡れているグラスの感覚を楽しむように、小山内の指先は妙に軽快に、それでいて鈍重に踊っていた。

「柊ちゃんから、聞いてるんでしょ?」

「……何のことだ?」

「私の親友の話」

 まさか、小山内の方から切り出してくるとは思わなかった。意表を突かれた形になってしまい、半ば無意識にグラスの底に残った僅かな量の焼酎を一気に流し込む。

 甘ったるい匂いが、鼻から抜ける。

「まぁ……なんていうか、大体は聞いたな」

「気にしなくていいよ。柊ちゃんに言えばさ、きっと塚本にも伝わるって思ってたから」

「アタシに?なんで」

「何となく、だよ。でも、何でだろうね、わざわざ言うことでは無いのは確かだけど、塚本が私のことを気にしてくれてたのは、分かってるつもりだから」

 いいや。

 多分何もわかっていない。

 自己満足の為だけに、自分がマトモな人間なんだと思いたいが為だけの行動だということを何も分かっていない。

 誰よりも、アタシは自己中心的で、そんな自分が嫌いで。

 それの裏返しの行動であることを知っていたらもっと軽蔑していてもおかしくはないのだから。

「……そりゃ、ショックなことだと思うけどさ。残りの人生が、ソイツを弔うだけってのは少し虚しすぎる気がするな」

「そんなことないよ。私には、それが幸せなんだ。色々塚本は私を気にかけてくれてるけどさ、私と優里のそういう部分は、気にしないで欲しいの。私だって、普通とは違う、少しおかしいってこと位は分かるよ?でも、優里への想いだけは、誰にも踏み込まれたくないの」

「……」

「勿論、塚本には感謝してる。田舎から出てきた時に、親切にしてもらったのは本当に助かったし、柊ちゃんとか椎本さんも含めて、こんなに良い人達と友達になれて本当に良かったと思ってる。だからこそ、優里への想いとか未練とか、私のそういう部分はさ、もうそういうモノなんだって、思っていて欲しいんだ」

 それを含めて、私は私なんだから。

 拒否のようにも思えるし、遠回しの肯定にも思える言葉は、なんというか悔しいと思えた。

 諦めを享受しているような表情が、少しムカついたのだ。

「その、優里さんとやらは、本当にそれを望んでいるのか?」

「ううん、多分望んでない。だから、これは本当に私の我儘なの」

「なら……本当に優里さんのこと想ってるんならさ」

「そういうことならさ、何回も、思ったよ。何百回も悔やんで、何千回も憎んで、何万回も汚い涙を流したよ」

 その果ての結論だとでも言いたいのだろうか。

 小山内をそうまでさせる、優里さんとやらは、果たしてどれだけ彼女を苦しませれば気が済むのだろうか。

 胃液が迫り上がるように、熱いものが込み上げてくる。それを押さえつけるように、席に来たばかりの焼酎を口に含む。

 アタシは小山内がどういう風に救われることを望んでいるのだろうか。

 もしかしたら、既に小山内は救われているんじゃないだろうか。

 そんなことを考えると、自分の価値観がひどく薄汚くて俗物的なものに感じられる。

 アタシは、もう少しマトモな人間になりたかった。それだけが望みだった。

 その筈だった。

 だが、その時ばかりは、微塵も自分のことを考えいなかった。

 優里さんという知りもしない女性に、或いは小山内という女性に。

 ムカついていたことしか、覚えていない。


「アタシじゃ、ダメなのか?」


 ああ。

 アタシは今酔っ払っているんだな。

 それを自覚したのが早いか、それともその続きの言葉が出た方が早かったのか。

 それは分からないが、少なくとも。

 理外で望外で埒外で、無根拠で無秩序で無思慮な言葉だけは。

 酔っ払っている所為だと、叫びたかった。


「優里さんの代わりにさ、アタシはなれないのかな」


 ほらやっぱり。

 アタシは自己中心的で、他人に対して何かを施せる程立派な人間なんかじゃ無かった。

 それを自供するような、言葉を吐いてしまっていた。

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