第8話 罪は曲水流觴の様に ②
時々、消えたくなる時がある。
それは死を望むこととは、別だ。
本当に消えてなくなりたいのだ。アタシが今この瞬間から、そして気の済むまで。
消えている間だけは、煩わしいことに心を動かされることもなく、そして、アタシがこの世界に居たという事実すら無くなってしまう。
眠りに入る時のように、無意識の内に消えてしまえればどんなに良いだろうか。
目覚める時のように、突如として存在が浮き上がるのであればどんなに安心だろうか。
そんな風に、思うことがある。
多分それは、不老不死を望むように、荒唐無稽な叶わない夢なのだろうけど。
酔いに任せて。
なんて言ってしまうのは余りに無責任だ。少なくとも、酔っていたとはいえ、ハッキリとした自分の意識の中で出た発言なので、そこには言葉にした責任は存在する。
それを嘘だと茶化すのも、真面目な顔をして本気だと言うのも、アタシには出来なかった。
アタシは小山内に惚れているんだろうか。
口に出してから、そんな疑問を呈するほどには自覚の無い言葉だったのだから。
「だからってさ、逃げ出す?普通」
江月は突き刺すような視線でアタシを見た。まるで告白にも似た発言が、自覚と無自覚の間を行き来しながら飛び出した直後、アタシは下手な言い訳を捲し立ててから、金を置いて居酒屋を飛び出してしまった。
そのまま家に帰る気にもなれず、江月を呼び出すと、バイトを終えた江月がすぐに駆けつけてくれた。
二人でお好み焼きの鉄板を挟んで向かい合いながら、つい先程の出来事を話すと、江月は笑うでも無くただ、呆れている。
「好きかどうかも分からない相手に、そんな告白紛いな発言は、無責任だし、失礼だよ」
手際よく豚玉をひっくり返してから、ソースとマヨネーズをかけていく江月の言葉は、思いの外まともだった。
「気付いたら口から出てたんだよなぁ。はぁ……」
「やっぱ粉物にはハイボールだよねぇ。あ、店員さん、海鮮も追加で。ほら、食べなよ」
「居酒屋で食べてきたからそんなに食えねぇよ。アタシは生もう一つ」
しかし江月もすっかりアタシと同じくらいの酒呑みになったようだ。ハイボールの入ったジョッキを傾ける動作は手慣れている。
「椎本とは結構飲みに行くのか?」
「それなりにね。ま、私は実家だし、椎本の家は柊がいるから外で飲むことが多いかな」
「あー柊は結構真面目だからなぁ」
大学生になったとはいえ、未成年で飲酒していることを心よく思っていない節がある。
黙認はしているが、肯定はしていないって感じか。まぁ、それが正しいんだろうけど。
「で?結局塚本は小山内さんのこと好きなの?」
「……分からん。だから、相談してるんだろ?」
そもそもとして、小山内のことを気にしていたのは、そういう好意とは別の領域の話だ。
何となく、小山内に優しくすれば、少しは昔の罪が贖われるような気がしただけだ。
だというのに、明らかに先程小山内に向けて言った言葉は、親切だとか厚意だとか配慮だとか、そういうのとは異なるものだ。
そういう類の言葉が、思考に反して無意識の内に出てしまったということはそういうことなんだろうか。
「江月がさ、椎本のことを好きだと思ったキッカケって?」
「え?恥ずかしいよ。椎本にも言ったこと無いのに。多分」
「良いだろ?ほら、友達を助けると思ってさ」
そうだなぁ…。
と江月は思い出すように豚玉を咀嚼しながら逡巡する。
店員の運んできたビールを飲みながら、江月が思い出すのを待つが、一向に口を開く様子がない。
「まさか忘れたとか無いよな?」
「いやいやまさか。ただ、こうして思い返すと、椎本のことを好きになったキッカケって、特に無いなって思ってさ」
「どういう意味だよ、そりゃ」
「自然と好きになってたんだと、思う。自覚が無いだけでさ、一目惚れだったのかも」
何だよ、それ。
と文句を言いそうになったところで、江月のスマホが震える。
慌てて電話に出た江月の口調と態度でなんとなく相手が椎本だと察したアタシは、お通しに出てきた塩キャベツを齧りながら、小山内のことを考えた。
もし、仮に。
そう、これは、仮定だ。
だから、もし仮にアタシと小山内が恋人になったとして。
江月と椎本のように仲睦まじく、いつまでも楽しそうに過ごすのだろうか。
(それは……まぁ、なんとなく想像は出来る)
だが、アタシだって子供じゃ無い。
恋人になるということは、つまりはそういうことで。
抱き合ったり、唇を触れ合ったり、肌を重ねたり。
そういうことを、望むのだろうか。望んでいるのだろうか。
(……想像もつかねぇ)
大体アタシは同性愛者じゃ無い。好みのタイプはジェームズ・ディーンのような渋くて色気のある男だ。
そうだった。そもそも、アタシは同性は恋の対象にならない筈だ。
(それなのに、自然と好きなのかどうかっていう疑問が出てきた)
絶対的な前提条件があるはずなのに、それをすっ飛ばしていた。
一体、それはどういうことだろうか。
「塚本、どうしたのさ、ぼーっとして」
「ん?ああスマン。考え事だ。で、椎本は何の用事だったんだ?」
「ああ。どこで飲んでるのって聞いてきたから答えたの。塚本があんまり不甲斐ないもんだからさ、これから二人で説教するから」
「……ま、相談に乗ってくれるのはありがたく思っておくよ」
なんだかんだ言いながら、江月も椎本も友達想いの良い奴らだ。
珍しく気落ちしている私を気遣って、江月が椎元も呼んで元気づけようとしてくれているんだろう。
そんな心遣いを気恥ずかしく思う年齢では無くなっていることを思い出して、アタシは追加の酒を注文した。
「いやーついに塚本にも春が来たか」
日付を跨いでも、アタシ達の飲み会は続いていた。というのも、普段であればブレーキ役の椎本がすっかり上機嫌になり、アタシも江月も翌日の講義のことなんか忘れて、三人で飲み明かしてしまっていたからだ。
「なんだよ、ついに、って」
「だってさぁ、塚本の好みのタイプって現実的じゃ無いんだもん。何だっけ?ジェームズ・ディーン?」
「え、誰それ」
「昔のハリウッド俳優だよ。理由なき反抗とかエデンの東とか見てないのか?」
意外と映画通の椎本は知っていて当然だが、江月はどうやら知らないようだ。
とは言っても、かなり昔に亡くなったし、作品もかなり古臭いのでアタシ達の年齢だと知ってる方が珍しいだろう。
「見てないなぁ。他には?」
「何だっけなぁ……クリント・イーストウッドも好みだっけ?」
「ダーティハリーの頃のな」
「とにかく、塚本の好みがあんまりにも現実的じゃ無いから、心配してたんだよ」
「別に心配することもないだろ」
椎本はどうやら相当酔いが回ってるようで、なかなかに面倒臭い感じになっている。
紅月はそんな彼女をニコニコと笑みを浮かべながら眺めていたので、助けを求めて視線を送るが、軽く無視されてしまった。
「好きかどうかわからないってさ、相手に失礼だよ?」
「おいおい、それをお前が言うのかよ」
「私は江月とのデートで江月のことが好きなんだって、自覚したんだよ」
「あ、そうなんだ」
いつのまにか日本酒を傾けている江月は突然の椎本の告白にも嬉しそうに満面の笑みを浮かべるだけだ。
というよりも、普段と違う椎本の挙動をアテに呑んでやがる。
「だから、デートするといいんじゃない?あ、ちゃんとデートだって宣言してからね」
「はぁ?そんなこと……」
「いいから、やるの。デートするまでウチを出禁にするから。柊にも言っておくよ」
「……わかったよ。一応、相談を持ちかけたのはアタシだしな」
とはいえ、何と言って誘ったものか。
それこそ、デートなんてのを誘って断られようものなら、消えて無くなってしまいたくなるほど恥ずかしい。
「ま。頑張れ、塚元」
江月が笑いながらそんなことを言う。
そうだな、もしダメだったら。これがあたしの小っ恥ずかしい勘違いだったら。
コイツらに笑い話として話してやろう。
消えたくなる夜もあるけれど、消えてしまわないのは、多分、馬鹿話が出来るコイツらがいるおかげなんだろうな。
そんなことを思いながら、少し温くなったビールを一気に飲み干して、追加のビールを注文した。
少しだけ、心は軽くなっていた。
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