第9話 記憶を浚う ①
たった一つの、言葉だった。
溶け出すのは、ほんの少しの時間と騙り続けた心の色。
バランスを崩したのは、内包的な心の空隙では無くて、狡猾的な善意の捉え方だ。
牙を剥くように、薄っぺらい真相が見え隠れしている。目を背けたくても、既にそれは私の目の前に突きつけられていた。
弱くて、泣き虫で、狡くて、小賢しくて。
不真面目で、不均等で、不憫で、不公平な私は。
いつだって、そうやって生きてきた。
生きる理由を貴方に押し付けて、死ねない理由を貴方に託して。
考える暇を与えないで、心をいつまでも幼いままに縛り付けて。
彼女が言ったのは、たった一つの言葉だ。
いや、もしかしたら、もっと多くのことを語っていたのかもしれないけれど。
それでも、塚本が私に語りかけた言葉は、要するにたった一つだ。
——優里の代わりになる。
そんな言葉が、私には、とても聞いてはいられないほどの、口汚い面罵に聞こえた。
「或いは、そういうものなのかもね」
「そういうもの?」
優里は買ったばかりのスマホで下校中の見慣れた道のアチコチを写真に収めている。
誰かが悪戯で置いた可能性すらありそうな、変哲の無い石を写真に撮っている。多分、道祖神か何かなのだろうけど、この村においては道祖神すら粗末なものだった。
「うん。写真みたいなものなのかなぁってさ」
文脈の前後が分からないのは優里の癖だった。多分心の中で考えていることの続きを、さも会話の続きのように喋っているのだろう。
「えーっと、何が?」
「なんていうのかな、私の生きる意味?」
どうやら、自分でもよく分かっていないらしい。優里は笑いながら写真を撮る。今度は大きな金床雲をフレームに収めている。
「ほら、人によってさ、あるでしょ?私には夢もないし、やりたいこともない。だからさ、何で生き続けるんだろうなぁって考えてたの」
「ふーん。そんな理由なくたって生きていけると思うけど」
「木乃香はドライ過ぎ。そういうもんでもさ、やっぱり理由があった方がいいでしょ?」
そうなのだろうか。無為に生きる方がずっと自然だし、人間らしい気もするけれど。
とはいえ、それは文化的ではない。
そう言いたいのかもしれない。
「でさ、私の生きる意味って写真みたいなことなのかなって」
「進級祝いにスマホ買って貰ったから、撮ってただけじゃないの?」
「それもあるけどさ、写真ってその瞬間を切り取るものじゃん?普通なら二度と戻らない時間をくり抜いて、永遠に保存できる。私の生きる意味ってさ、どれだけ時間が経っても色褪せない程に永遠に出来た思い出を残すことなんだと思う。死ぬ間際にさ、それを一つ一つ思い出して、ああ良い人生だったなぁって思う為の時間なんだろうなって考えたの」
——死を前提としている癖に、妙に前向きな考え方だと思った。
そりゃ、不老不死なんてことはあり得ない。永遠の時間なんて、考えただけで身震いがするし、もし不死が可能な世の中になってもきっと私はそれを拒否するだろう。
それでも心のどこかで永遠を祈っている。その矛盾を優里は克服した。
永遠を望みながらも忌み嫌う、人類の矛盾を、優里は克服していた。
自分の生きている間の時間のみを永遠だと定義して、優里は笑った。
どんなに偉い哲学者だって、どんなに凄い宗教家だって。
きっと優里には敵わないだろう。
優里は短い永遠を、手に入れていた。
「それよりさ、優里は卒業したら村を出るんでしょ?」
私達は高校三年生になった。
当然、私はこの村を出る決意をしていた。両親は反対するだろうけど、もう関係ない。
あの人達は、私を産んだだけの人達だ。この村の因習に囚われている彼らを、血の繋がった人間だと思いたくも無いし、娘の私なんかよりもこの村で死んでいくことの方を重視している彼らを親だと思う義理も無い。
「ま、それなりに勇気はいるけどね。私も、ここを出たら、多分もう戻らないつもり」
「ね、一緒の大学行こうよ。ほら、一緒に住めばさ、生活も少しは楽になるよね」
言外に、優里も親の支援を得られないということを伝えている。
(まぁ、優里の両親も大概だからなぁ)
特別酷い、という訳では無い。
平均的なこの村の大人だ。
だが、それは途轍もなく醜悪だと同義でもある。
「そうだね。うん、一緒にこの村から出よう」
一緒に。
たったその一言が、私にとって光だった。
希望という言葉に一番近しくて、未来という言葉に一番似ている。
村は、春だった。
心地良い春の陽気が、私の中に入り込んでいて、悲観的な私の考えを少しだけ変えていた。
もし、そんな希望に絆されていなければ、もし、そんな未来に気を許していなければ。
もしかしたら、優里はまだ生きていたんだろうか。
家に着いてから、夕飯を食べて自室で勉強し、ゆっくりと布団に入る頃には、強い風が吹いていた。
葉擦れの音と、甲高い窓の隙間を楽器にして響き渡る風の音が喧しい夜だった。
明滅する赤い光が、未だに網膜に張り付いて離れない。
優里の家には、人集りが出来ていた。
「木乃香ちゃん……」
人垣を割って進んだ私に声をかけたのは、優里の母親だった。憔悴しているし、動揺もしているようだ。
「なにが……?何があったんですか?優里は?」
「優里が……。優里……」
「だから、何があったんですか!?」
優里の母親は、震える指で一点を指す。視線を向けると、救急隊員が何かをストレッチャーに載せようとしている。
駆け寄ると、ピクリとも動かない優里がそこに居た。
「優里!優里!?あの……何があったんですか?優里に何があったんです?」
救急隊員に話しかけても目を逸らされるだけだった。
「ね、大丈夫ですよね?ちょっと気を失っちゃってるだけですよね?」
横たわる優里の顔を近くで見ようとする。
本当に眠っているようだ。
救急車に乗せられていく優里を、私は見送ることしかできなかった。
その数日後、正確にはどの程度空いたのか分からなかったが、優里が自らの胸部に刃物を突き刺して自死したことを聞いた。
死んだことを責めるつもりは無い、死にたいのならば、それに付き合う覚悟はあった。
たった一人で、私の知らない場所へ行ってしまったことを、恨んでいるのだ、憎んでいるのだ。
そしてそれこそが弔いだと、信じているのだ。
その弔いこそが、私にとって生きる意味で、私の中の短い永遠の中に優里を閉じ込めることが、この世界にいるたった一つの理由なのだ。
そんな優里の代わりになると、塚本は言った。
ふざけるなと、何も知らない癖に軽々しく言うなと。
叫びたかった、そうするべきだった。
なのに何も言えなかったのは、茫然としてしまったのは。
——嫌になるくらい、私は人間的過ぎる所為だ。
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