第10話 呼吸音 ①

 月の光に、何もかもを奪われた。

 錠剤の糖衣の様に、多分それは安全で機能的な組織なのだろう。

 それを夜は奪い去った。心とか気持ちとか、思考とか常識とか。

 そういうものを包んでいた糖衣が、月の光に触れながら、解ける様に消えていった。

 アタシ達は互いを否定し合っている。否定しながら、それを轍の様に跡に残す。

 月の光を雲が隠す。

 痛みに目を覚ますように、何かが喉元で騒ぎ出して、アタシはふと我に帰る。

 そうか。

 と、笑う。自然過ぎるほどに、その笑みには我欲は入り混じってなかった。

 全てを公正に、明確に。

 なんて、この世の中にはありはしないのだと。

 そんなことを思い知らされている。そんな気がしている。



「で?その後どう?」

 講義を終えて、バイトが始まるまでの半端な時間を埋めるためにキャンパス内のベンチでスマホを弄っていると、唐突にそんな声を背後からかけられる。

 プレイしていたゲームアプリを閉じて、視線を向けると今日も仲良く二人で過ごしていたらしい椎本と江月がいた。

「その後って?」

 素知らぬフリをしたが、なんとなく二人が言いたいことは分かっていた。

 どうやら二時過ぎだと言うのにこれから二人は昼食らしい。

 アタシの横に仲睦まじく二人並んで座るとコンビニのサンドイッチを膝に広げていた。

「コンビニの商品はコスパが悪いとか言ってなかったか?」

 少し前の椎本は受験勉強でバイトもしていなかったということもあり、かなり切り詰めた生活をしていた筈だが、いつの間にか余裕が出来たらしい。

 それを揶揄するように言うと、椎本は軽く笑いながらスマホを見せてきた。

「あークーポン貰ったってことね」

「塚本もいる?友達招待すると五百円分のポイント貰えるんだよね」

「ん?あとで登録しておくよ、リンク送っていて」

「それでさ、一昨日の話、あれからどうなったの?」

 上手く話を逸らせたと思ったが、江月は誤魔化せなかった様で、強引に話題を戻した。

 心の中で舌打ちをしつつも、二人から顔を背ける。

「分かりやすい反応……、何ビビってんのさ」

「いやいや、ビビってねぇよ。でもさ、そもそも好きだとかどうとか、アタシ自身理解してないのに、デートに誘うって意味分からないだろ」

 そもそも、デートなんて言ってしまえば、向こうは警戒して断るに決まってる。

 酒が抜けた後、冷静になって考えると、それは無謀すぎる上に得られる物が無いと判断した。

 むぅ、と江月はつまらなそうに唇を尖らせた。

 さてはコイツ、面白がってるな?

「椎本もなんかいってよ」

 と、江月はサンドイッチに舌鼓を打っている椎本に向けてパスを出すが、「ん?」と小首を傾げてからゆっくりと咀嚼していたサンドイッチを飲み込んだ。

「まぁ、人の恋路にアレコレ言うのは野暮だけどさ。私から言えるのは一つだけかな。塚本が何を引き摺ってるのかは分からないけどさ、何かアクションしないと、多分そのままだよ」

 大体知っている癖によく言う。

 椎本は、既にアタシが昔のことについて酷く自己嫌悪していることも、それについて忸怩たる想いを持っていることも、ある程度は理解している筈だ。

 そして、昔犯した罪について、誰かからでは無くアタシ自身が許すしかないということも。

「……いつの間にか、椎本の方が大人になったんだな」

 そうするしか無い、とか、避けられない道では無い、とか。

 そういう訳ではない。

 気の迷いだ、と切り捨てて見て見ぬフリをしても、多分問題はないだろう。

 それとも、そういうことだと認めてしまった上で諦めても、きっと同じだろう。

「ん、分かったよ。やれるだけのことはやってみる」



 とは言ったものの、どうやって小山内をデートに誘うか。

 バイト中、そんな悩みと戦いながら過ごしつつ、無事一日を終えた頃。

 元来、ウジウジと悩むことが苦手なアタシは当たって砕けろの精神で通話ボタンに指を伸ばしていた。

 辺りは、もう真っ暗だ。

 宵闇の中で、大学の講義とバイトで疲れ切った頭が、妙な痺れの中で、どうにでもなれ、と叫んでいた。

 諦めに近かった。

 こんなにモヤモヤとした思いを抱えるくらいなら、いっそのこと思い切り断って欲しいという、投げやりな感情だった。

 むしろ、それこそ正しいのだと、思っていた。

 コール音は、二回も鳴らなかった。

「……塚本?」

 控えめな声だった。

 そういえば、もう十二時を過ぎている。もしかしたら寝ていたのかもしれない。

 それを考えると、少し申し訳なく思ったが、同時に今を逃せば、また明日の朝まで待たなくてはならないという、奇妙な恐怖が泡立つ様に沸き起こっている。

「悪い、寝てたか?」

「ううん。バイトが終わって、帰ってきたところ。どうしたの?」

「えと……この間の言葉だけど、さ」

 自分から電話をしておいて、口籠もる。無論、それは気軽に言葉にしていいものではないと、知っている。

「……ん。覚えてるよ」

「あれ、冗談じゃ、ないから」

「そうなんだ。ええと、その気持ちは嬉しいよ。けど……」

 その後に続く言葉を、アタシは知らない。知る必要もないと思っていた。知らずとも、いとも容易く予測できるからだ。

「あのさ!」

 だから遮る。

 これは、アタシの我儘だ。

 そこに、小山内の事情は関係ない。勿論、優里さんとやらも、関係ない。

 アタシが満足して納得するために必要な儀式に、アタシ以外は関係無いのだ。

「今週末、アタシに時間をくれ」

「時間……?別にいいけど、どこか飲みにいくの?」

「あー……今んとこノープランだ」

「そっか。分かった、空けとくね」

 小山内は、電話の向こうで、少し笑っている様な気がする。

 揺らすように。

 アタシの身体を揺らすように、強い風が突如として巻き起こった。

「外にいるんだ」

「ああ、アタシも今バイト終わったところ」

「ね、一つだけ、行きたいところ思い出した」

 小山内は、ポツリと言う。

 そこは、なんてことない、観光地だ。

 だけど、多分そこには小山内にとって、一人じゃとてもいけない場所だったのだろうか。


 恰も、それを求める。

 どれほど無慈悲に思えても、アタシは求める。

 赦しを、与えることを、齎すことを、覆すことを。


「じゃあ、そこ、いってみるか」


 多分、アタシの最後嘘をその日、吐く

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