第20話 いつか、優しい世界で ①
時折、誰かに頼ることを悪い事だと認識している人がいる。
その考えの根本には、その人なりの責任感だとか、或いは世間に対する信頼感の多寡が影響しているようにも思えるが、そう考えてしまう人々にとって、それは的外れな憶測に過ぎない。
彼らにとって、誰かに頼るということは、或いは、何かに寄り掛かるというのは未知なのだ。
彼らの半生や、それとも生真面目過ぎる性格というのが、その所以であるのかもしれない。
未知というのは、人を怯懦させる。
頼ってしまった結果、何が起こるのか分からない、もしかすると、今直面している問題よりも輪をかけて厄介な何かに巻き込まれるかもしれない。
そんなことを、意識無意識の違いはあれど、心の奥底で思ってしまうものなのだ。
椎本の場合は前者だった。
アイツは、世間や社会というものを必要以上に警戒し、何かに頼るという選択肢そのものを惰弱だと切り捨てていた。
まるで、世界はいつだって自分に悪意を向けているのだと、怯えるように。
或いは、対価も無しに助けの手を伸ばす人間は総じて詐欺師だと言わんばかりに。
功刀の場合は、後者だ。
自分の力で何とかする。いや、しなければならないと信じ込んでいるようだ。
平均と比較してかなり小柄なその体躯に纏わりついた視線や他人の態度が、そういう考えを生んで、硬化させたのかも知れない。
もしかしたら、それこそ、誰かに助けられてしまうという事実が、彼女にとって屈辱そのものだったのかも知れない。
誰かに頼り切り、というのもどうかとは思うが、幼少期に肉親以外の誰かに頼るという経験を積めなかった人間は、そういうことに耐性が無い。
そういうこと、というのは。
偶然にせよ必然にせよ、助けられてしまったという事実が齎す、精神への影響だ。
功刀は、アタシに助けられてしまったという事実について、必要以上に絆されてしまったらしい。
そう考えなくては、功刀が私に好意を向ける理由が分からない。
だけど、直感的に思った。
自分の気持ちを素直に吐露するということに不慣れなのか、それとも純粋に彼女の高揚した気分がそうさせているのか、そのどちらなのか分からないが、寒風の吹き荒ぶ冬の夜に暖房の効いた家に帰ってきた時のような、健全な色の赤みが頬に差している。
それを見て、素直に功刀を可愛いと思ったし、同時にそれは、後輩に対して抱くような種類の可愛さとは別種のものだとも理解していた。
「……何か、言って下さいよ」
呆気に取られていた、とは言い難い。
それでも、微動だにせず、半ば叫ぶようにしてアタシのことを好きだと言った功刀から目を離せずにいたのは、功刀の持ち合わせている、不器用さからくる愛おしさのようなものを感じていたからだ。
「……悪い、いきなり過ぎて、さ。何も考えられねぇ」
過ったのは、彼女に対する答えなどでは無く、小山内と優里さんへの罪悪感だった。
そして、その罪悪感を抱いてしまうということは——。
「……すいません。おかしいですよね、私。でも、あの日、先輩に助けられてからずっと、心がぐちゃぐちゃだったんです。女の人を好きになってしまった自分を嫌悪したし、たった一回助けられてしまった位で好きになってしまう自分が情けなくも思いました」
功刀はアタシの返答が芳しくないと察したのか、涙を目尻に溜めて、それでも気丈に言う。
その涙を拭ってやりたいとも思った。
アタシよりも一回り小さい彼女を世の中の悪意から守ってやりたいとも思った。
だが、それをするには、アタシの手と心は汚れ過ぎていた。
「それでも、どうしようもなく好きなんです。先輩が誰かと仲良くしているのを見ると苛々するし、先輩が笑顔を向けると心臓が痛いんです」
それは、功刀に耐性が無いからだ。
無条件に優しくされることも、無償で助けられるということも、知らないから、騙されているだけなんだ。
そういう言葉が喉から出ない。
功刀のことを想うのなら、そうやって諭すのが一番であって、逆に彼女にそれを言わないのは、それこそ詐欺師のようなものだ。
ホストやキャバ嬢の類と同じ、何も変わらない。
いや、それよりもタチが悪い。
だというのに、言葉が出ない。
彼女がアタシに向けてくれている好意を、アタシは受け止めたいと思っているのか、そんな疑問がまるで他人事のように浮かんでは、自嘲すら引き出さずに消えていく。
「ねぇ、朱音先輩。私じゃ、ダメですか?」
上目遣いに、懇願するように尋ねる功刀の姿に、理性が壊れそうになる。
それに身を委ねるということは、アタシはもう、自身の罪を濯ぐ機会を捨て去るということと同義だ。
アタシの罪が、かろうじて理性を守っていた。
アタシの罪は、もう消えないことは知っている。それでも、このままでいい筈は、無い。
まるで抱擁をせがむかのように身を寄せた功刀の身体を優しく両手で引き離す。
瞬間、功刀は自分が拒絶されたのだと知り、今にも溢れそうだった目尻の涙は、ゆっくりと頬を伝っていく。
「先輩……?」
功刀の言葉は、少なくともアタシの心の奥深くを、爪弾くように触れていた。
◇
「赦さないって、言ったでしょ?」
ああ、いや、赦してない、だったかな?
と、椎本は呆れるように言う。
アタシが一言謝ると、強がりだと見え見えの笑顔を浮かべてから功刀は部屋を出た。
彼女を見送ってから、どことなく所在無さげな心を宙ぶらりんにさせたまま、古臭い中古のソファに深く腰を下ろして、何をする訳でも無くサークル室の隅を眺めていた。
そんな折に、椎本がふらりとやって来て、そんなことを厳しくも笑いながら言った。
「聞いてたのか?」
「いや、何も。でも、塚本の顔見てたら何と無くわかるよ、なんだかんだ付き合いは長いからね」
「……なぁ、椎本。アタシは赦されないのかな」
「じゃあ、聞くけどさ。私が塚本を許した、もうあの時のことは恨んで無い——なんて言ったら、満足?」
およそ会話の内容から酷く乖離した表情だ。まるで手の掛かる子供をあやすような、慈悲深い笑みだ。
「……そりゃ、そうか」
「そ。結局、そういうことなんだよ。私は今でも、中学の時の塚本を許してない。それでも、今の塚本は好きだよ。それでいいじゃん。過去がどんなに辛くても、明日はいつだって、楽しい日なんだよ」
それは、きっと椎本が手に入れた、彼女にしか分からないこの世の真理なのだろう。
とても痴愚的で、愚昧で、蒙昧だ。
それでも、そうであってくれたら、どんなにいいことか。
「それに、塚本が今背負ってる罪がさ、もしなかったとしたら、私はきっと今みたいに仲良くなれなかったのかもね」
「……いつだったかな。アタシがアンタに説教した時とは、まるで逆だな」
「ははは。確かに」
アタシは笑う。
椎本と笑う。
「サンキューな、椎本。おかげで、やりたい事が、分かった気がする」
アタシが勢いよく立ち上がると、椎本は代わりにアタシが座っていた場所に腰を下ろした。
「私も江月も——、ここで待ってるから」
「……そっか。そうだな」
それなら、これ以上罪を塗り重ねても、怖く無い気がする。
いつの間に、椎本はこんなにも強くなった。
それはきっと、江月のおかげなのだろう。
素直に、アタシもそうなりたい、と思った。
思ってしまった。
だから、踏み出す。震えるくらい怖いけど、それでも、明日は、世界は——。
「それから、塚本」
サークル室から出るアタシを、椎本が呼び止めた。
振り返ると、アタシを見据えて椎本が笑っている。
「世界はいつだって、優しいから」
ああ。
そんなことなら、とうの昔に、お前に教えられたさ。
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