第19話 青さの残骸 ②

 緩慢な痛みが、不均等に襲う。

 それは、旧友の様な親し気な懐かしさを携えて、笑いかけてくるような温かみのある痛みだ。

 痛みが欲しいと何度思ったか、悼みを止めたいと何度考えたか。

 それでも、彼女は、私を尚も救おうと考えていたことは、思いもよらなかった。





 そこにいる筈もない見覚えのある姿に、私は数瞬、呆けていた。

 お互いの間に流れた、気まずい様な、或いは困惑めいた空気を断つように、塚本は数歩前に出て、私に近づいた。

「……これが、優里さんの?」

「……うん」

「少しだけ、墓参りさせてくれ」

 墓前で屈んだ塚本は、背中を丸めてゆっくりと手を合わせた。何を、伝えているのだろうか。

 幾つも疑問はあるが、塚本が優里の墓前で何かを悼んでいる。

 その光景が絵画の様に、滲んだ輪郭の中で妙な現実感を喪失させていた。


「……さて、赦してくれたかな、優里さんは」

 どんな赦しを乞うたのだろうか。

「塚本……」

「ホントはさ、向こうに戻ってから、お前に伝えようとしたんだけどさ、タイミングが悪かったな」

「……何を?」

 見当もつかない。そもそも、塚本がここにいることも、何もかも分からぬままだった。

「贖罪って奴だったんだよ、きっと」

「……ゴメン、言いたいこと、分かんないや」

 一人納得した様に呟く塚本に向かって、私は落ち着かない気持ちのまま、素直に答えた。

 決まった管理者のいない田舎特有の墓地とはいえ、高齢者の参拝者用に簡素なベンチがあった。すっかり日に焼けて色褪せた、安っぽい樹脂製のベンチだ。

 そこに塚本は腰掛けると、大きく伸びをした。もし私と同じ旅程で来たのなら、軽く三時間近くは座りっぱなしだったに違いない。

「アタシはさ、昔椎本に酷いことをした。取り返しのつかないことだし、大袈裟でも何でもなくて、きっと椎本の人生を狂わせたとすら思ってる」

「……でも今は、椎本さんと仲良いじゃない」

 それは、過去にどんなことがあったにせよ、許されているということではないのだろうか。

 罪の重さは、被害者の許し一つで重くも軽くもなるものだ。それは、相応の罰を受けたかどうかとか、被害者の心が寛大だったかどうかとか、そういうものに左右されながら、それでも確固たる一つの事象として、人と人の間に発生する一種のエネルギーでもある。

「時々思うんだ、今の楽しそうな椎本を見ているとさ。これが罰なんじゃないかって。本当はもっと早く、アイツはこういう幸せを手に入れられた。或いは、そういう幸せを持っていた椎本を一時的にとはいえ壊してしまったんじゃないかって」

 だから、アイツとの友情云々とは別種の、自虐的な意味合いもあって、アタシはアイツと今でもつるんでるんだと思う、と塚本は言う。

 そう言った後の力の無い笑みは、どこまでもいっても自分は罪人なのだと、そう主張しているような気がした。

「小山内と出会った時、アタシは小山内に救いを求めた。知ってたか?あん時のお前、何をしていても辛そうに見えてたんだぜ」

「……それでも、私は塚本のおかげで……!」

 救われた?

 その後に続く言葉を、私は吐けなかった。精々が、気が紛れた程度だった。今にして思えば、それが限界だった。

 思わず口を噤んだ私を見て、塚本は哄笑した。

「救えなかったよ、アタシじゃ。あの時、アタシは小山内を幸せに出来れば、あの時の椎本と同じ位辛そうにしているお前を救えることが出来れば、アタシはアタシを許せるって考えてた」

 それは——酷く虚しい話では無いか。

 自分を許すことに、いや、赦すことの難しさを知っている私は、優里に心惹かれた自分の過去と重ねて、その辛さがよく理解できた。

 十重二十重に言い訳を重ねても、結局いつかは本音が露出する。

 不意に、辻褄すら関係なく、突如として。

 厄介なのは、罪を背負ったことじゃ無い。いつまでも心を蝕む罪悪感なのだ。

「本気だったんだ。いや、本気だと思ってた。だから、アタシは優里さんに誓った。絶対小山内を救って見せる、って」

 でも結局、このザマだ。

「だから、ここに?」

 まあ、な。

 と、短く頷く塚本に私は嘆く。

 何故こんなにも心を尽くせる人間だけが、罪を背負うのだろう。

 何故罪を罪とも思わない厚顔無恥な連中だけが、豊かになる世の中のだろう。

 全て等しく不幸になって仕舞えばいい。

 かつて願った私の思いは、やっぱり正しい想いだったんじゃないだろうか。

 それでも……。


「でも、小山内にも伝えたいことが、あるんだ」


 僅かに塚本の頬が紅潮している。それでも、彼女は救われたいと望んでいる。

 それでも私は救われたかったと祈っていた。

 私は呪いにかけられていた。

 優里が私の悲観主義を一笑した時から、決して解けない呪いに、脳髄が蝕まれていた。

 それでも、私達はこの世界で幸せとやらを見つけてみたい。

 蜜のように甘美で、捉えようによってはどんな地獄よりも残酷な、呪いだ。

 命と幸福を求め続ける、優里の残してくれた、たった一つの、呪い。

 その呪いが与える緩慢な痛みは、心の何かを擽っては、無謀にも脚を動かしていく。

 優里に手を引かれて歩いたあの日々のように。


「私も塚本に伝えたいことがあるんだ」



 そしてそれは多分、世の中に住む大多数の人間にかけられた、世界で一番ポピュラーな呪いなのだろう。


 その呪いが、私たちの青春の残骸を見つめていた。

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