第15話 見せかけの感情論 ①

 桐谷雫という女性を羨ましく思う時が、ある。彼女を苦手に思う理由を答えろ、と言われたら迷いなくそう答えるだろう。

 羨ましいから苦手なんだ。それは普通の感覚なのだろうか。

 他人との距離という概念を持たないが故の、人当たりの良さ。

 これまでの人生で絶望することなんて無かったのだろうな、と邪推させてしまうほどの底抜けた明るさ。

 そして——、

 桐谷の前だと、私の中にいる優里までも、彼女の話につられて、笑ってしまう。

 あの日の夜、そんな彼女を憎んだ。憎んで、穢そうとした。寂しさを埋めるなんて言葉を使って、自分を貶めた。

 だけど私の動きを止めたのは——私の倫理観でも無く、優里への罪悪感でも無く、塚本の泣き腫らした顔だった。



 教え子達の受験も終わり、バイトメンバーで日帰り旅行をしようと提案したのは、桐谷さんだった。

 これは単なる慰安会では無くて、大学院に進学しバイトを辞める不破先輩を送迎する会なのだと、なんとなく察していたが、それを察すれるほど、私は人間関係とやら上手く溶け込める様になったことに対して少し自分の成長を感じて

 いた。

(きっとそれは——)

 塚本のおかげ、なのだろうと思う。

 彼女と真正面から向き合わず、ただ塚本の中に優里を見ていた私にとっては、とても都合の良い話だけど。

「しかし意外だったなぁ」

 一度道の駅で休憩してから、再び目的地へと向かって走り出したタイミングで、運転席の桐谷さんが助手席で車窓を眺めていた私に向かってそんな含みのある言葉を放つ。

 何が意外なのか、と尋ねようとした時、後方の席で大きな笑い声が上がった。

 どうやら、木村さんと同い年の澤谷さんが何やら面白いエピソードでも披露していたようで、不破さんも釣られて目に涙して笑っている。

「……小山内はこういう集まり、苦手だと思ってた」

「そんなに、意外ですか?」

 視線を桐谷さんに戻す。桐谷さんは一瞥する程度の短い時間、私を見ていたようだが、直ぐに目の前のフロントガラスに視線を戻した。

「別に付き合いが悪いとか、そういう訳じゃないんだけど。何となく、騒がしいのは嫌いだろうなって、思ってた」

「騒がしいのは嫌いじゃ無いですよ?騒がしい人が嫌いなだけで」

 場の雰囲気で盛り上がっている分には別に何とも思わないが、一人でいても煩い人が苦手なだけだ。

 しかし、そんな想いを今の言葉ですんなり理解出来る人なんかいるだろうか。

 そういう独り善がりな部分が私のダメな部分なんだろうな、とこっそり反省していると、桐谷さんがカーナビに目配せしながら答えた。


「ああ——私みたいなやつか」


 と。

 悪びれる様子も自虐する訳でもなく——それどころか、誇らしげに言った。

 私は毒づいたつもりはなかった。とはいえ、桐谷さんを苦手だと思っていたのは事実だし、私の言葉に彼女を貶すような意図が無かったにせよ、ハッとして私は慌てて否定した。

「いえ、あの、桐谷さんのこと、私は別に」

 取り繕ったようなフォローの言葉に聞こえたのかもしれない。

 だけど、一つ年上の桐谷さんは尚も爽やかに笑う。

「いやぁ、私が騒がしい奴だってのは分かってるさ。昔から馴れ馴れしいなんて、よく言われたもんだよ」

 其れをあっけらかんと云えてしまう所が、羨ましい。そういう風に、自分の評価をしてしまえる彼女のこれまでの人生が羨ましい。

 悲しいことなど、辛いことなど、まるで無縁だったかのような振る舞いが苛立たしい。

 まるで、不幸なのは、その不幸な人間自身に問題があるのだと、指摘されているような気分になる。

(もしかしたら塚本は、それを伝えたかったのかも、知れない)

 仮にその憶測が正解だったとして、どうすることも、出来ないのだけれど。


「いいの?帰りも運転させちゃって」

 日帰り旅行の最後は、牧場と隣接したワインセラーと併設するレストランでのディナーだった。

 突然、帰りも運転する桐谷さんは酒を飲むことはできない。

「いいっすよ。今日の主役は不破さんっすから」

 免許を持っているのは桐谷さんと不破さん、それから澤谷さんだったが、免許をとってから一度も運転していない澤谷さんに任せることもできないので、自然と帰りも桐谷さんが運転することになった。

 皆それぞれ、バイトを引退する不破さんにプレゼントを渡し、無事送迎会は終わった。

 私はと言えば、以前不破さんが欲しがっていた入浴剤のセットを渡した。なかなかに喜んでくれたと思うので、まあ無難ながらも良い選択をした方だろう。

 帰りは、桐谷さんがそれぞれの家に順番に皆を降ろしていき、結局レンタカーの店舗から家の近い私と桐谷さんが最後に車を返しに行くことになった。

「ね、小山内。今結構酔ってる?」

 後方座席に座っていたバイトのメンバーが居なくなると、計器の光だけがチカチカと光続ける暗い車内は妙な静けさを持っていた。

 そんな折、もう少しでレンタカー屋に着くタイミングで桐谷さんは不意にそんなことを呟いた。

「えと……ワインのアルコールはもう結構抜けてきちゃいました」

「ふーん……」

 そこで再び会話は途切れてしまう。

 騒がしい奴、だと自分でも認める桐谷さんが、妙に静かだ。

 やはり、私と二人きりというのは、気まずいのかもしれない。そもそも、私はあまり話す方じゃ無いし、桐谷さんと雑談することもあるが、周囲には他に人がいて、二人きりで話す機会というのは存外少ない。

 どうしたのだろうか、と夜道を運転しているためか、前方から視線を離さない桐谷さんの顔を一瞥する。

 暗くてよく分からなかったが、対向車のヘッドライトの光が一瞬車内を照らした時、何故だか、彼女が変に緊張しているような、そんな気がした。


「ね、この後飲みいかない?」

「そういえば桐谷さん、運転で飲めなかったですもんね。いいですよ」

 労いの気持ちもあり、半ば反射的に答える。レンタカーを返し終えてお互い家路に着くか着かないかというタイミングだった。

 そういえば、桐谷さんと二人で飲みに行くのは初めてかもしれない。

「じゃ、テキトーな居酒屋にでも入ろうか」

「はい」

 答えながら、意識してしまった。

 寂しいのだと、そんな自分勝手な理由を押し付けて、彼女の肢体に手を伸ばしてしまったあの夜のことを、思い出してしまった。

(塚本と別れたっていうのに、なんでだろうか、不誠実な気がする)

 それは塚本に対してなのか、優里に対してなのか。すっかり分からなくなってしまった。

 塚本を通して優里を見ていた私にとって、もしかしたら二人は同一の存在にまで合一化されてしまったのかもしれない。

 けど、そんな勘違いこそ、不誠実なのではないだろうか。


 桐谷さんとなんてことない会話を交わしながら、思考の一部はそんなことをぼんやりと考えていた。

 おかしいな、お酒を飲むと、そんなことを考えなくて済むはずなのに。

 今日は少し、おかしい。


「——ね、小山内。この後、ホテル行こうか」

 すっかりウーロンハイのグラスを乾かした桐谷さんが、頬杖を突いて私の顔を見ながらそんなことを言った。

 そこには何も特別な意図は無いかのような口調で、私も思わず相槌のように頷いてしまう所だった。

 それはどういう意味なのか、答えに窮していると、桐谷さんは——妖艶に口角を上げた。八重歯が、可愛らしく顔を覗かせた。


「この間の続き、してもいいよ」


 私はなんて不誠実な人間なのだろう。

 だけど、堕ちていくことに、まだ罪悪感を感じられる自分が居ることに安堵していた。

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