第15話 見せかけの感情欄 ②

 ある人は、それを諦めと呼んだ。

 ある人は、それを妥協と蔑んだ。

 君は、それを救いと祝福する。

 私は、これを何と言うのだろう。


 軋む音すら無い、上等な寝具が私の身体を跳ね除けるように弾む。

 私から倒れ込んだのか、それとも彼女に押し倒されたのか。

 そのどちらだとしても、大きく意味は変わらない。

 不義だろうか、不貞だろうか。

 その葛藤すらない事に、私は安堵してしまった。満たされることに全てを注いで、不安の影も、希望にも似た縋りも、全て汗と吐息と共に何処かへ行ってしまえ。

 そういう行為に、私は後悔の入る余地すら無く、寂しさという名前の空白を、桐谷という女性の色に染めていく。

 それは望んだ色ではないことを知っていた。だが、何も無い真白い色では無いことが、塚本に対して私が塗り潰したドス黒い色でも無いことが、ただただ嬉しかった。


「——タバコ、吸うんですね」

 夜はまだ半ばなのかも知れないが、私と桐谷さんにとっての夜は終わったように思える。

 ライターの音に気付いて桐谷さんの方に倒れ込んだ体勢のまま向き直ると、慣れた手付きでタバコに火をつけている姿が目に入った。

「ま、人前じゃ吸わないようにしてたけど」

 言いながら、紫煙をホテルの室内に満たしていく。タバコを吸ったことも無ければ、これまでの人生で一度たりとも興味すら示さなかったのに、不思議とそれを吸ってみたいと思って、手を伸ばした。

「——……うぇっ……」

 桐谷さんから取り上げたタバコを見様見真似で口に含んでみたが、肺に到達する前に咳き込んでしまう。

 そんな様子を見て、桐谷さんは柔らかく笑った。

「別に美味いもんじゃ無いから、止めときな」

 カラカラと笑って、私から再度タバコを奪うと、美味しそうにまた紫煙を吐いた。

 彼女が美味しいと感じているものを、私が美味しいと思えないことが、何故か悔しかった。

 そんな少しだけ屈折した気持ちが、別の想いと直結して、自然と言葉になる。

「こういうこと、よくするんですか?」

「んー?こういうこと、って?」

「こうやって、たいして好きでも無い人とホテルに行くことです」

 肌を重ねた直後に投げつけるような言葉では無いな、と我ながら思う。

 桐谷さんを否定する気は、最初から無かった。だからこそ、そこに何かしらの感情は載っていなかった筈だ。私も承知していたし、行為に対して無責任でいられるような子供でも無い。

 だから、これは単なる興味だ。

「私、けっこー好きだぜ?木乃香のこと、さ」

「そう、ですか」

 好きだという言葉が、こんなに軽い物だなんて初めて知った。

 だからこそ、その軽さが、軽薄さが、薄情さが。

 自然と心の中にストン、と収まった。

「寝た女は下の名前で呼ぶんですね」

「いや、恋人は下の名前で呼ぶ派だ」

「それって……」

 私の出かかった野暮な言葉を塞ぐ様に、桐谷さんは今日何度目かのキスをした。

「嫌か?」

「……嫌って言ったら?」

「木乃香は嫌いな女とも寝る尻軽なんだな、って思う」

 と、冗談っぽく言うので、思わず笑ってしまう。そういう軽さが、私を一つずつ無防備にしていく。

「……それは、心外ですね」

 今度は私の方から唇を寄せた。あまり美味しく無かったタバコの味が、今度は不思議と離れ難い依存性を伴って私の脳髄を刺激した。


 ◇

 大学の構内を歩いていると、ヒョコヒョコと小柄な体躯を上下に揺らして歩く姿を見かけた。

 雑踏の中にいても目敏く見つけてしまえる自分が、浅ましい人間のような気がして、少し苦笑してしまう。

「お疲れ様、塚本」

 声を掛けると、塚本は直ぐに振り返った。

 多分無意識なのだろうけど、何処か私を見る目が、辛そうな色を残している。

「椎本ん所の鍋パーティー以来か?」

 だが、直ぐに表情は切り替わる。何でも無いと、私を安心させる様に、自然な表情を取り戻している。

 そのいじらしさに、心が傷まないわけでも無い。

 あの日、塚本は彼女らしくも無く、泣いていた。別れを切り出したのは、塚本からだった。私にとっては青天の霹靂で、驚きもした。だが、すぐに得心がいく。

 耐えられなくなったのだろう、と。私が彼女の中に優里を見ていたことが、それどころか、優里の代わりにしていたことが。

「えっと——うん、そうだったね。そっか、二週間、か」

 付き合っていた頃は、三日と空かずに顔を合わせていたのにね。

 なんて、そんな言葉が後に続きそうになった。そんな言葉を飲み込む様にして、息を大きく吐き出した。

「そういえばさ、バイト仲間と旅行、したんだろ?どうだった?」

「旅行って言っても日帰りだよ。先輩の運転する車でね。楽しかったよ?受験シーズンも終わってようやく羽根伸ばせたからかな」

 と、笑う。

 そんな笑みの中に、罪悪感を隠す意図があるなど、きっと彼女は思いもしないのだろう。

 塚本を、優里を騙す様にして、私はこれからどうしていくのだろう。


 桐谷さんの中に、優里の影を求めなかったことを、塚本はどの様に思ってしまうのだろう。

 舐めとる様に、罪過をこの身に隠して仕舞えば、きっと彼女達は、また別の形の幸福に辿り着けるのだろう。

 そういう言い訳だけが、私の拠り所だった。

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