第16話 夜毎に募る ①
庇護欲、とでも言えばいいのだろうか。
きっとアタシは椎本と関わった、あの中学の一件以来、持って生まれた元来の真っ直ぐな人格というものはとうに失われてしまったらしい。
真っ当に過ごしていれば、アタシの生来の性格的に抱き得ることの無かった欲望は、歳を重ねるごとに無視し難いモノへと変貌している。
アタシはそれを、罪悪感から来る贖罪なのだと思っていた。
だが、どこまでいってもそれが欲求だというのなら、庇護欲としか言いようが無い。
悪意と自虐的な言葉を用いて換言するのならば、『自分よりも弱い人間を見つけて、それを護る振りをして優越感に浸りたい』だけなのだろう。
元々、罪悪感からの解放だと自己分析していた頃から、その気持ちは清廉なものだとは微塵も思っていなかったし、唾棄すべき自己愛的な下卑た考えだとも思っていた。
だが、それが罪悪感からの解放ですらなく、単なるアタシの一つの欲求——つまりは性癖だと知ってしまった時、アタシに人を護る資格も救う資格も、ましては愛する資格なんて無いのだと理解した。
長年アタシを突き動かしてきた行動原理の正体が、そんな下らない欲求なのだ。
そういう事実を、彼女はアタシに突きつける。
正確に言うと、アレルギー反応のように、彼女を——功刀を見ると、私の心が過剰なまでに反応して、そんな真実を囁くのだった。
少なくとも、功刀と名乗る一つ歳下の女性は、私にとっての天敵のような存在だった。
「すいません、ご迷惑をおかけしました……です」
水を飲んで、幾分か楽になったのだろう。酔臥していた彼女はアタシの姿を見るなり、上体を起こしてフワフワとした口調で礼を述べた。
十二時が過ぎ、閉店の準備を終えてバックヤードに戻ったアタシは、この新入生をどうするか、という問題が残っていた。
ちなみに横溝先輩に彼女の後始末を頼んでみたが、『俺の女性免疫の無さを甘く見るなよ?挙動不審過ぎて警察呼ばれるわ』と、堂々と言うのものだから仕方なくアタシが最後まで面倒を見ることになった。
「あー……えと、アンタ名前は?」
「クヌギ……です」
まだ気持ち悪いのか、流暢に喋れる程の余裕は無さそうだ。所々で、不自然な間が挟まれる。
「クヌギさん、もう店閉めるんだが、家の場所、分かるか?」
「……スイマセン……越してきたばかりなんで、ここら辺から帰る道、わからないんです」
「あー……成る程。住所は言えるか?」
最初の印象からあまり他人に気を許すような性格では無いと思っていたのだが、どこか抜けているというか無防備というか。
少し呆れながらも、スマホにメモしていたらしい住所をアプリに打ち込むと、大方の予想通り大して遠くはなかった。
大学の近くって程ではないが、遠くもない距離なので必然的にアタシの家からもさして遠くは無い。
(仕方ないか……)
と、タクシーを捕まえて、アタシは運転手に住所を伝えて千夜を押し込んだ。
「ほら、五千円札渡しておくから、これで帰れ」
彼女がどの程度財布に入っているか知らないが、新入生だというのなら、金銭的には厳しいだろう。
「ありがとう……ございます。あの、名前は」
「いやいや、もう会うこともないから名乗らなくていいだろ。ほら、とっとと帰れ」
「借り、作りたくないんです。お金も、返したいですし」
「いいよ、五千円くらい。これに懲りたら、もう変な連中に捕まるなよ?この時期になると新人歓迎会とか何とかいって悪さする奴も少なくないんだからさ」
そう言って、まだ何か言いたげな功刀を無視してタクシーのドアを閉じる。
すぐに走り始めたタクシーを見送って、アタシはそのままバイトの疲労感そのままに、自転車に跨って家路についた。
そんな出来事があったのが、一週間ほど前。その間にあったことと言えば、たまたま講義が重なった小山内が少し垢抜けた、というか妙にテンションが高かったことくらいだ。
「あ、塚本、インナーカラーにしたんだ。いいね、似合うじゃん」
と、小山内が前触れも無くアタシの髪に触れる。講義中だというのに、アタシは柄にも無く大きな声で反応してしまって、恥ずかしい思いをした。
そのことについて、小山内は屈託なく笑っていて、それはアタシの望んだ光景でもあったはずなのに、何故か少しだけ心が痛む。
「あ、そういえば江月さんが今日宅飲みしよう、ってさ。塚本にもメッセージ来てる?」
講義を終えて、それぞれ次の講義に向かう直前、小山内は思い出したように言う。確かに、そんなメッセージは昨晩来ていた。返事はまだしていない。
小山内も呼ばれていることを考えると、素直に返事を返すことが出来なかった。
正直言って、アタシはまだ小山内と真正面から向き合う覚悟は出来ていない。
とはいえ、
(まぁ、江月達がいるなら……、いいか)
と、軽い気持ちで承諾した。
意識し過ぎるのも、お互いにとって良くないことだ。そして、それを理解し過ぎてしまうのも、不自然な気がしていたのだ。
メッセージアプリで『椎本家』と名付けられたグループチャット(何故かアタシもそのグループに含まれているのは、微笑を誘う)で、宅飲みの詳細を聞くと、ちょっとしたお祝いらしい。何のお祝いかと言えば、当然柊の入学祝いだ。ついでにナンテンも呼ぶとのことだ。
二人も私達と同じ千倉大学に入学した。ナンテンは別としても、柊ならもっと上の大学を目指せたはずなのだが、本人曰く、
『姉さんと離れるのは嫌だから』という健気な理由だった。
午後からは暇していた江月と落ち合うことになり、お互いバイトも予定も無かったので、何となく喫茶店で駄弁ることにした。
「なーんか、久しぶりな気がする」
と、珈琲に口をつけるよりも早く、江月は席に着くなり懐かしむように言う。
「ここに矢嶋が居れば、高校の頃と何も変わんねえな」
矢嶋は関西の大学へと進学した。長期休みの度に会ってはいるが、あの頃と違って気軽に会えなくなったことが、地元に進学したアタシにとっては一番の環境の変化だったりする。
「まさかナンテンが合格できるとはな」
「あの子は私が勉強見てたからね。合格してくれなきゃ、困るよ」
椎本と同じくらい、いやそれ以上に勉強の苦手なナンテンがまさか合格するなんて思ってもなかった。
「椎本に続いてナンテンまで合格させるなんてて、先生の才能あるんじゃね?」
「教員免許取るのも考えようかな……」
「持ってても困るもんじゃないし、いいんじゃないか?正直就活のことなんか今から考えたくないけどさ」
とは言っても、いずれ来る問題ではある。自分が真面目に社会人として働いている姿というのはどうにも想像つかないけど。
「それにしたって、柊、喜んでただろ。ナンテンも一緒の大学合格してさ」
と、アタシはいずれ来る就活の問題を直視したくなくて、話題を戻す。
「多分ね。ほら、柊ってあんまりそういうの表に出さない子でしょ?」
「まぁ、確かにな。大人ぶってるというか、冷静沈着っていうか、そんな感じだよな」
「あ、でも珍しく大学に入って趣味の合う友達が出来たって喜んでたなぁ。ほら、塚本も好きでしょ、B級映画っていうの?」
「お、同士を見つけたか。そうなって来ると、B級映画同好会としてサークル作るのもアリだな。大学でダラダラできる部屋欲しかったし」
連続で講義が入っている日は良いが、飛び飛びで講義があるとどうしても手持ち無沙汰になってしまう。
一年は必修講義が午前中に固まっていたので不便は感じなかったが、ある程度楽な講義だとか要領を知った二年になると、どうしても時間を持て余してしまう。
「じゃ、もしサークルを作るなら私と椎本もメンバーに入れてね」
「サークル室で二人きりだからって、変なことするなよ?」
「……発想が男子みたいだねぇ、塚本は」
などと冗談を交わしながらアタシ達は、結局宅飲みの時間まで、下らない雑談に終始していた。
そろそろ椎本の家に向かうか、というタイミングで、メッセージアプリが着信音を鳴らした。椎本からのメッセージで、どうやら柊が大学で仲良くなった友人を誘ったらしいとのことだ。
あの柊がナンテン以外を家に誘うなんて、よっぽど気が合ったのだろう。
「あ……!」
椎本の家の玄関を開けるなり、スタッカートのような、どこか間の抜けた声が響いた。
どうやら柊の新しい友人というのは、少し前、バイト先で出会った、あの少女らしい。
妙な巡り合わせもあったもんだ、と、アタシは苦笑した。
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