第12話 もう君を愛せない日々
いつからか、アタシはそれを、愛と呼ぶようになった。
若しくは、それ愛と呼ぶための仕草に過ぎなかったのかもしれない。
兎に角、幼い頃に映画やドラマで夢見た可憐な物とは程遠い存在だと思ってしまった。
愛とは人間が心の中で醸成し得る感情の中で最も醜く見苦しいものなのではないか、と。
或いはそういう感情を徹底的に濾過し不純なものを捨て去り残った僅かな綺麗な部分を世間は愛と呼び、結局のところ人工的に処置を施さない生のままの愛はそういう汚く粘度の高いヘドロのようなものなんじゃないか、と。
そういう勘違いとも言い切れない結論を下すのは、アタシにとって自然なことだった。
ガコン、と少し気の抜けた音がしたかと思うと、小気味の良い金属音が鳴る。
振り抜いた反動で手が少し痺れるが、飛んで行った白球(使い込まれているので最早その表現は妥当ではないかもしれない)の放物線を見ると何とも言えない爽快感が湧き起こる。
バッティングセンターには、平日の夜ということもあり客の姿は少なかった。
ヒュッ、と短く持った金属バットが空を切る。
今度は、情け無く空振りしてしまった。
ムキになる、という訳じゃないが、小学生の頃男子に混じって少年野球クラブに入っていた自負もあり、何となく空振りしてしまうのが面白無かった。
一球打つ度に、空っぽのグラスに何かが注ぎ込まれていく感覚だった。いや、その逆なのかも。
アタシは何にイライラしているのか、その正体も分からずに、次の球を待つ。
使い古されたピッチングマシーンが、最後の一球を頼りなさ気な所作で放り込む。力を入れてバットを振り抜くが、当たり損ねた球は所在なさ気にバウンドして影の中に吸い込まれていった。
「今でも野球少年って言えばバレなさそうですね」
「……珍しいな、お前がこんな所にいるなんて」
何処か馬鹿にしたような笑みでアタシを金網の奥から見ていたのは柊だった。
「アレの付き合いですよ」
と、柊は視線だけで、2つ隣の130キロの速球を投げるブースを指し示した。
そこにはナンテンが立っており、軽快なスイングでヒットを量産していた。しかし、相変わらず二人は仲が良いらしく、柊は興味ないフリをしながらも、ナンテンがヒットを打つ度に微笑を浮かべている。
「……分かりやすい捻くれ方してますねぇ」
「ま、大人には色々あるんだよ。色々な」
「誤魔化さないで下さい。夏頃から、朱音先輩、おかしいですよ?」
はて、おかしいだろうか。
自分としては、普段通りを装っていた筈だが、何処かでボロでも出たんだろうか。
そんな風に首を捻っていると、柊は暖かい緑茶のペットボトルを飲んでから、白い息を吐き出した。
そうか、もうそういう寒さの季節なのか。
と、改めて気付かされる。同時にこの一年、何をしていたのだろうか、とも思ってしまう。
「それより、お前ら受験勉強はいいのかよ」
「私は特に問題は無いですよ。ま、天梨の方は危ないですけど」
と苦笑しながら、柊はナンテンを見る。
「……もう、あと二ヶ月もしない内に、今年も終わるのか」
「気が早いですね。まぁでも、朱音先輩にとっては良い一年になったんじゃ無いですか?」
と、柊は言外に私に恋人ができた事を茶化している。
そうやって、茶化すのが精一杯という感じだ。
理由は何と無くわかる。
アタシと小山内の関係は、歪だ。
その歪さを、言語化すら出来ていない。だというのに、アタシはその関係が壊れる事を恐れている。
そして、小山内は、今の関係を望んでいる、と思いたい。
何が不満なんだ、とアタシは自分に何度も問いかける。言いようの無い不安が、いや、予感めいたものが、時折心に影を作る。
清廉な恋でなくてはならない、なんて、無垢な少女のように駄々を捏ねたい訳ではない。
だというのに、歪さだけは何かを訴えかけるように、私に問いかけてくる。
「……私は誰かの恋路に茶々を入れる程、野放図な人間でもなければ、心を慰めるだけの言葉を施すような無責任な人間でもありません」
安っぽいファンファーレが場内に響く。どうやら、ナンテンがホームラン賞を取ったらしく跳んで喜んでいる。
それを見て、柊は柔らかい笑みを浮かべてからアタシを再度見据えた。
「今の先輩は、少しだけ、昔の私に似てるんで心配です」
それは具体的にどういう部分だろうか——。問い掛けるべきことも、反論すべきことも沢山あった筈なのに。
それを口にすると、本当にアタシは小山内との関係を考え直さなくてはいけないような気がして、口を開けなかった。
地元の球団のマスコットキャラのぬいぐるみを貰ったナンテンが駆け寄ってくる。
柊はそんなナンテンを見て、篤実な可愛げのある笑みを浮かべている。
そういうことなんだろうか。
意味や理由を求めないことが、自然なのだろうか。
乾いていく喉を潤すように、きっとアタシは何かを求めていた。
それが間違いだったのだろうか。
「なぁ、柊」
「はい?」
「——今のアタシはどう見える?」
さて、柊は何で答えのだったか。
恋に真実は必要ないのだと知っていた。
或いは、愛に過去が必要だと知っていた。
結局、アタシの望むことは、誰かの心の拠り所になることだけだった。
誰かを傷つけたから、代わりに誰かの傷を癒すことで、罪を精算したかった。
そんな途方も無く投げやりで単調な心の動きを、いつの間にか恋だの愛だのと名前を勝手につけて、それを守ろうとしていた。
そうで無くては、アタシは自分ことしか愛せない、他人傷つけることしかできない、そういう人間だと、誰かに非難されそうで怖かった。
だから、小山内を護ろうとしたし、恋しているのだとも錯覚した。
それなら、結局自分を護ることしか考えられない低俗な存在なら。
原点に戻ろうか。
誰かを傷つけても、アタシは小山内に恋をしない。
愛することも、多分もうしない。
その代わり、小山内に残る傷跡だけは。
アタシの罪で埋めてやろう。
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