第4話 前向きな自傷行為 ①

 肺腑に一片も残さず酸素が抜け落ちていくような感覚を覚えて、飛び起きる夜が偶にある。

 酸素を求めて粗い呼吸を繰り返し、やがて悪夢でも見たのだろうかと思い返すが、その時にはもう何も覚えていない。

 ただ、何者かによって首を絞められたかのような息苦しさだけが、頭の中にこびりつく。

 首を絞めるのは何者だろうか。幼児のように柔らかく小さな手で、柳のように冷たく細い指のようだった気もする。

 本当は正体を知っている。

 それは悔恨と呼ばれるものであったり、嫌悪と表すものであったりする。

 要するに、過去の残滓だ。アタシの拭いきれない、贖われない罪の残滓。

 その手が首を絞めるのではなく、アタシの手を取るというのなら。

 アタシは多分、その日をいつまでも待ち望むのだろう。



 視界を遮るほどの夕立が俄に振り始めていた。五月の雨はまだ冷たい。

 傘をさしながら並ぶアタシと小山内は、言葉を交わすことなく淡々と歩き続けていた。

 少しでも早く雨宿り出来るところを、というのがアタシ達の間にある共通見解だった。

 駅前のロータリーを早足で歩き抜けて、目に入った喫茶店に入るとようやく一息ついた。

 お互い傘は持っていたが、折り畳みのものだったので、僅かに肩先が濡れてしまった。

 小山内は少し前と比べると垢抜けた。髪型も同じセミロングだったが内巻きにパーマをかけているし、ライトブラウンの明るい髪色に染めている。

 塾講師というバイトに腰を落ち着けたので、蓄えも出来たのか、今日見る服装も初めて見るものだった。

 決して派手という訳ではない、落ち着いた服装だったが、柔らかい色合いが小山内らしいと、アタシは何となくそう思った。

「その色、いいじゃん」

 濡れた毛先をハンカチで拭いている小山内を見て、不意にそんな言葉がアタシの口を撞いて出た。

 服の色のこと指したつもりだったが、小山内は染めた髪のことだと思ったようで、少し照れたように笑ってから、

「田舎出たら、髪染めようってずっと思ってたんだ」

 と返した。

 別にこの街は都会って訳じゃ無いけどな、とも思ったが、彼女がこれまで過ごしきた故郷と比べると、この地方都市も十分に都会なんだろう。

「バイトはどうだ?」

「折角受験終わったのに、教えなきゃいけないから勉強し直してるよ」

 愚痴のようにも聞こえるが小山内の声色は明るく、楽しんでいるようだ。

 アタシはその表情にどこか安堵しつつも、確実にこの街で始めた新生活を安定したものに変えていく小山内に寂しさを覚えた。

 最近では、大学内でもアタシや椎本達とは別の友人が出来たようだし、なんというか、笑顔が増えた気もする。

「そっか、アタシはそのバイトできないな。今更勉強なんてゴメンだよ」

 言いながら、暗い気持ちが少しだけ潜んでいることを隠した。

 頼られること、誰かを導くこと、助けること。

 もっと簡潔的な言葉で表すなら、奉仕。それだけが、私の罪の精算方法のような気がしてならないから。

(最低だな……アタシは)

 吐き出したくなる自己嫌悪の言葉を心の内に留めるのは、不均等な痛みを伴う前向きな自傷行為だと、とっくに知っていた。

 窓外の夕立の如く、誰かに罵倒されたのなら、少しは気でも晴れるのだろうか。

 注文したレモンティーが来た。

 小山内はとうに別の話題を話し始めていて、アタシもそれに相槌を返すが、夕立のような俄雨とはならない心に囚われ続けていた。


 ◇


「——なんか今日は突然ですね?」

 酒の味を覚えてから、アタシは時折柊に晩酌を付き合わせることが多くなった。

 というよりも、アタシも柊も好きなB級映画鑑賞という名目の集まりに、アタシが酒を持ち込むようになっただけだ。

 真面目——というよりも、そもそも興味のない柊は一切酒に手を出さないが、ツマミは結構好きなようで手土産に持ってきた鮭とばを小さな口で噛みながら、座椅子に座った。

「まぁ、良いですけど。今日は姉さん達居ませんし」

「本当アイツら仲良いよな。あれだけ一緒に居て飽きないのかね」

「さぁ?私としては姉二人が仲良いのは嬉しいことですけどね」

 この一月近く、色々な種類の酒を飲んできたが、アタシはどうやら甘口の日本酒が好みのようだ。喉を通った瞬間に、胃の下辺りが暖かくなっていく感覚が癖になる。

「ある程度予想は出来てましたけど、やっぱり朱音先輩は相当な酒飲みになっちゃいましたね」

「お前も大学入学したら一緒に飲もうぜ。良いもんだぞ?」

「飲むとしても私は二十歳まで飲みませんよ?」

 むう、相変わらず固い奴だな。

 それが柊の良いところでもあるんだけどな。

 アタシは取り敢えずサブスク登録してある動画配信サイトから適当に面白そうな映画ピックアップして、テレビに出力した。

 映画が始まると自然とアタシ達は無言になって、映画に集中する。

 その所為だとは言わないけれど、映画が終わる頃にはアタシは何杯飲んだのかも、覚えていなかった。


「相当飲みましたね……掃除面倒なんで吐かないで下さいよ?」

 思考がずっとフワフワとしている。酔っている自覚はあるけど、その自覚がある分大したことじゃ無いと思う自分もいて。

 同時にこの纏まらない浮遊感のある気分が気持ちよくて維持し続けたいと思ったりもしていた。

「水いります?」

「いらねぇ。あー何かスゲェ気分良いわ」

「……多分あと数分もすると気持ち悪りぃって言ってますよ」

 柊は呆れるように言うと立ち上がろうとする。水でも汲んでくるのだろう。

「朱音先輩、一つ聞いてもいいですか?」

「んー?」

「朱音先輩は、私といる時だけ無防備になりますよね。なんていうんですかね、最後の最後まで残してる部分まで、私の前だと隠さずにいるっていうか」

「何でだろうな。仲間意識みたいなのがあるんだろうさ。私が、一方的に、勝手な解釈で、さ」

 柊が水道水をコップに入れて差し出したが、アタシはそれを手に取らずに、お猪口に日本酒を注いで飲み干した。

 多分、この先は。

 酔ってないと、言葉にできない領域だと思ったからだ。


 酩酊という言い訳無しには話せないと思う冷静な自分と、素面ならとても吐露しない言葉を口に出そうとしている冷静ではないアタシが同時に共存している。

 それを俯瞰的に捉えている自分がいて、少し笑ってしまった。

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