22.二人きりのサロンで

 ある日の夕食後、わたしとルーファスはサロンに居た。

 暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音が、静かな部屋に響いている。温められた部屋は心地良くて、機嫌よくソファーに腰を下ろすとルーファスが隣に座った。


 ミラが用意してくれた紅茶にブランデーを少し垂らすと、燻した香りがふわりと漂う。

 ルーファスはホットワインを飲むようだ。底の広がった丸いグラスからは湯気が立っている。


 紅茶を一口飲んでから、ソファー横のサイドテーブルに用意しておいた本を手に取った。数日前から読み始めた旅行記だ。鮮やかな色彩で描かれた挿絵が美しくて読みやすい。


 今日読み始める新しい章は、砂の国について書かれたところだ。

 扉絵に描かれている赤い街がとても綺麗。建物全体が赤を帯びていて、砂漠の白に良く映えていた。


 さて、では早速……とページをめくると、隣のルーファスも膝の上に書類を置いたところだった。


「ルーファスはお仕事?」

「少し目を通しておきたい書類があってね。サフィアは?」

「旅行記を読んでいるの。今日は砂の国ロヴェリーについてよ」

「ロヴェリーもいい所だから、君が気に入ってくれたら嬉しいんだが」


 砂の国であるロヴェリーはルーファスのお母様の出身地だ。

 人魚が住む……なんて聞いた事があるけれど、この旅行記にはそれが書いてあるだろうか。


「いつか行ってみたいわ。あなたは行った事があるのよね?」

「母に連れられて何度かね。ここ数年は行っていないんだが、君と一緒に行くのもいいかもしれない。母方の親族に君を紹介したいし」


 そんな未来があればいいのに。そう思いながら小さく頷いた。

 目を落とした旅行記の冒頭は、広場で開かれる市場について触れられている。賑わう市場を思い浮かべながら、わたしは本へと意識を落としていった。



 ページをめくり、紅茶を飲む。カップが空になる頃には、吐息に酒精が混ざっていた。

 ロヴェリーについての章を読み終えたわたしは、栞を挟んで本を閉じる。


 深く息を吐いてからソファーの背凭れに体を預けた。目を閉じて、挿絵を思い返す。

 人魚は本当にいるらしいけれど、中々その姿を見る事は叶わないのだとか。ロヴェリーの王都は湖を囲うように出来ていて、その湖の中央に王城があるのも珍しいと思った。


 行った事がない場所に思いを馳せる事が出来るのも旅行記の良いところだ。

 読後の余韻に浸っていると、隣でくすりと笑う声が微かに聞こえた。


 目を開けてそちらを見る。

 ルーファスがわたしの顔を見つめていた。赤い瞳は楽しそうに煌めいて、口元には深い笑みが浮かんでいる。


「どうしたの?」

「いや……楽しそうに読むなと思って、目が離せなかった」

「え? やだ、見ていたの?」


 夢中で本を読んでいたところを見られていたなんて。羞恥に顔が赤くなっていくのに気付いたけれど、これはお酒のせいかもしれない。少し酔いが回っているのが自分でも分かる。


「あなたも読む? 旅行に行った気分になれて楽しいわよ」

「それもいいが……出来れば実際に行きたいな。君と一緒に」


 優しい声でそんな事を言われたら、わたしの鼓動は簡単に跳ねてしまう。

 彼と一緒に旅行をしたらきっと楽しい。新しい発見も、その地特有の食事も一緒に楽しんでくれるだろうから。


「……わたしもそう思うわ」


 ぽつりと零れ落ちたのは、わたしの本音だった。

 それを耳にしたルーファスが嬉しそうに笑うものだから、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 わたしを見つめる彼の眼差しが甘いのは……わたしの気のせいだろうか。そうであってほしいと願ってしまって、そう見えているだけだろうか。


 これじゃいけない。

 そう思ったわたしは抱えていた本をサイドテーブルに置いてから、テーブル上に用意されていた飴の包みを一つ手に取った。


「お仕事は終わったの?」


 溢れそうになる恋慕を隠して、明るい声で問いかけてみる。

 薄紙を開くと、飴は苺の形をしていた。本物の苺を飴で包んでいるようだ。小さな苺で作られているから食べやすい。


「終わったよ。まぁ仕事というまでのものでもなかったんだが」


 彼の声を聞きながら、苺の飴を口に入れた。舌の上で転がしていると、薄い飴が溶けて苺の甘味が口の中に広がってくる。


「いつも忙しそうよね。疲れていない?」

「大丈夫。これでも帰宅は早くなったんだ」

「そうなの?」


 確かにルーファスが帰宅する時間は早いかもしれない。

 わたしが仕事に行っている時は夕方に迎えに来てくれるし、わたしが家に居る時だって夕食までには帰ってきてくれる。

 今まではそうじゃなかったのだろうか。


「早く帰ってくる理由が、今まではなかったんだ」


 わたしの心を読んだかのように、彼がそんな言葉を紡ぐ。

 下ろしたままのわたしの黒髪を指に絡めては解く事を繰り返して。


「君が家で出迎えてくれるから早く帰りたくなるし、仕事に行っている時は迎えに行きたいからやっぱり早く帰りたいんだ」


 それは、わたしと一緒に過ごしたいと……そう思ってくれている?


「ふふ、遅くなったってわたしは出迎えるのに。お迎えだって無理をしなくてもいいのよ? ……来てくれたら嬉しいけれど」

「サフィアの迷惑じゃないなら、これからだって迎えに行くさ。たまにはそのまま食事に行かないか?」

「いいわね。牡蠣の美味しい季節よ」

「君は昔から牡蠣が好きだったな。学院内のカフェで昼食をとる時に、冬になると牡蠣を使ったメニューばかり食べていたのを思い出すよ」

「だって美味しいんだもの。あなただって食べていたでしょう?」

「君があまりにも美味そうに食べるからね。牡蠣の美味い店を調べておこう」

「楽しみだわ」


 口の中の飴が溶けて、苺だけが残る。思っていた以上に果肉が瑞々しい。甘い香りが鼻を抜けていった。

 苺の飴もわたしの為に用意してくれたものなのだろう。その気遣いが嬉しい。


 気付かない内に、ルーファスとの距離が近付いていたらしい。肩が触れ合って、温もりが伝わってくる。

 心地の良い、穏やかな時間だった。こんな時間がずっと続けばいいのに。


 そう、願ってしまうくらいに。

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