23.勇気(ルーファス)
王城内にある第三王子の執務塔。
塔の中でも奥まった一室を与えられている筆頭補佐官のルーファスは、書類にペンを走らせていた。
一つの書類の山があっという間になくなっていく。処理の終わったそれを種別ごとに仕分けたルーファスはその束を纏めていった。机を使って端を揃えてから、ふぅと深い息を吐く。
卓上にある時計へと目を向ける。
サフィアは何をしているだろうか。午後のお茶を楽しんでいる時間かもしれない。
ふとした時に想うのはサフィアの事ばかりだと、ルーファスは自覚していた。
緩く波打つ黒髪は夜を思わせる程に色深く、意志の強い青い瞳は宝石のように輝いている。
ほんのり色付く頬や、ふっくらとした唇が彩る美貌も、華奢ながら姿勢良く立つ姿も何もかもがルーファスの目を引いた。それは学院時代、初めて会った時から何も変わらない。
サフィアはずっと魅力的な女性だった。
学院で出会った時、彼女には既に婚約者がいた。初めての恋に落ちたと同時に失恋をした。
攫って逃げる事を何度夢見たかも分からない。婚約者の事を幸せそうに話すサフィアに対して、そんな事を実行できるわけもなく、ただの夢に終わったのだけれど。
だから自分は友人としてサフィアの側に居る事を選んだ。彼女が隣国に嫁いでも、友人としての縁を繋いでいけるように……恋慕の一欠けらも零す事のないように自制しながら。
サフィアが婚約を破棄したと、そう知らせてきたのは友人のヘレンだった。
相手方の有責で破棄となったが、実際に婚約解消を言い出したのは元婚約者だったという。
裏切られたサフィアは自分の殻に閉じこもった。親しい人の前では表情も豊かだったのに、ただ美しいだけの人形のようになってしまった。
話しかければ返事をする。夢の中を揺蕩っているような、力のない声で。
青い瞳には光も力もなく、ここではないどこか遠くをぼんやりと見つめているようだった。
そんな彼女を目にして、元婚約者を殺してやろうかと思った。
ヘレンに止められなければ、間違いなく隣国の元婚約者の所へ乗り込んでいただろう。サフィアをこんなにも傷付けて、当人は幸せに過ごしているだなんて許せなかったからだ。
サフィアの為に何が出来るのか。
考えても答えは見つからない。愛を囁いても彼女の心に響く事はないだろう。だから想いを押し殺して、ただ彼女の元に通った。他愛もないお喋りをして、傍にいると伝える為に。
彼女の瞳に光が戻ったのは、婚約を破棄してから一年が経とうとしている時だった。
サフィアに何があったのかは分からない。自分の中で決着をつける事ができたのか、それとも何か違う要因があっての事なのか。
気にはなっても深く問うつもりもなかった。彼女が笑っているならそれでいい。
サフィアの瞳に自分が映る事を、どれだけ欲していたのか思い知らされるようだった。
そんなルーファスに対して、サフィアが告げた言葉は──
『後妻を求めているような家でもいいんだけれど』なんて、ひどく残酷なものだった。
家に迷惑を掛けたくないから独り立ちする?
教師として働く? 難しければ後妻でもいい?
馬鹿を言うな。好きでもない男に嫁ぐなら……俺でもいいだろう。
ごくりと喉を鳴らしたルーファスは、平静を装いながら秘めていた願いを口にした。この命が尽きても告げるつもりのなかった言葉。
『サフィア、俺と結婚しないか』
安心させる為に、お互いに利のある契約結婚だと
彼女ならきっと、この手を取ってくれると期待して。
今までの事をぼんやり思い返していたルーファスの思考を引き戻したのは、ノックもなく開かれたドアの音だった。
「やあルーファス、元気にしてる?」
機嫌よく執務室へと入ってきたのは、ルーファスの上司であるヴィント第三王子だった。
その手には切られていないパウンドケーキを持っている。皿にも乗せず、ケーキをわしづかみにする様子にルーファスは眉を寄せた。
「歩きながら食べないで下さいと何度言えば分かって下さるんですか。それは皿に載せるもので、そうやってわしづかみにするものではないでしょう」
「固い事言うなって。初恋に溺れる君を眺めながらおやつにしようかと思ってさ」
小さな応接セットのソファーに勢いよく座ったヴィント王子は、パウンドケーキの端から大きな口で齧り付いた。
口いっぱいにケーキを頬張るその様子はまるで幼い子どものようで、ルーファスは大きな溜息をついた。
「奥方との仲は進展してる?」
「仲良くやっていますよ」
「それって友人としてでしょ。恋愛の絡む夫婦として一歩踏み出せたかって聞いてるんだけど」
「囲い込んでいる最中です」
「あはは、奥方も大変だ。こんなに重い男に好かれるなんてね」
「押しつけも無理強いもしていませんよ」
肩を竦めたルーファスは、部屋の端に用意されているワゴンに近付いた。保温効果のある魔導ポットの中にはコーヒーが入っている。
それを二つのカップに注いで、ルーファスも向かい合うソファーへ腰を下ろした。テーブルにカップを置くより前にヴィント王子が手を差し出したから、ルーファスはそのまま渡す事にした。
パウンドケーキを半分も食べれば喉が渇くのも当然だろう。
「でもずっとこのままでいるつもりじゃないんだろう? いつかは愛を伝えるわけだ」
「そうですね。今のサフィアにそれを告げても彼女は受け入れられないでしょう。いえ、義理堅い彼女なら、気持ちを偽って俺に応えようとするかもしれません。でもそれは俺の望むものではないので」
「しっかり好きになってほしいから、一生懸命口説いてるんだもんねぇ。夜会でもでれっでれでさぁ、僕は面白いものを見れたからいいんだけど」
「別に楽しませようとしているわけじゃありませんが」
カップに口をつけたルーファスはコーヒーを一口飲んだ。香ばしさと爽やかな酸味が口いっぱいに広がって、深い息をつく。
「奥方が君を想っていると実感出来てから愛を告げるというのは、ちょっと卑怯なんじゃないか」
「一気に進めて、それでサフィアに距離を置かれたら生きていけません。ゆっくり進んでいくからいいんですよ」
「想いを告げる勇気もないのか」
揶揄うような声に、ルーファスは眉をしかめた。
そんなの自分が一番分かっている。
「何とでも」
肩を竦めるルーファスの様子に、ヴィント王子は声をあげて笑った。
いつの間にかパウンドケーキは跡形もなく消え去って、ヴィント王子はポケットから取り出したハンカチで手を拭いている。
「まぁおやつも食べ終わったし、本題に入ろうかな。頼まれてたこれを渡しに来たんだ」
ヴィント王子の声から愉悦が消える。
笑みを浮かべていても、その瞳に宿る光は王族としての威厳を帯びていた。
言葉を紡ぎながらジャケットの内側から取り出したのは一枚の書類。三つに折り畳まれたそれを受け取ったルーファスは中を確認する。
「ありがとうございます」
「動向が気になるのも当然だろうから、気にしなくていいよ。これでも君の恋を応援しているんだ」
ルーファスの手にする書類には、サフィアの元婚約者の現状が書かれていた。
隣国にも伝手のある上司を頼って正解だった。
「浮気相手とはうまくいかず、所属している騎士団でもつまはじきにされている。……この男の入国を禁止できないですか」
「あはは、罪を犯したわけでもないし流石に無理だね。でも……分かるよ。奥方に縋ってこないとはかぎらないもんねぇ」
何もうまくいかない今と違って、何もかもが順調だった過去が恋しくなるだろう。
今更サフィアの前に現れられても困る。暫くはこのロータル・ガイスラーから目を離すわけにはいかないようだ。
書類を畳むルーファスの目に入ったのは、左手薬指に描かれたマーガレットとラベンダー。
サフィアと縁が結ばれているという証を確認して、ルーファスの口元は笑み綻んだ。
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