3.思いもよらない提案で
「というわけで、教師として働けるような伝手はないかしら」
ドルチェネ家の応接室。
暖炉の中には煌々とした火が焚かれ、部屋の中を暖めている。四角い窓の向こうでは小雪がちらついているけれど根雪になるのはまだ遠いだろう。葉を落とした木々が風に枝を揺らしている。
テーブルを挟んでわたしの向かいに座っているのは、学院に通っている時からの友人──ルーファス・ベルネージュ侯爵。
長めに整えた銀髪と褐色の肌、赤い瞳が印象的な美丈夫だ。わたしが婚約を破棄して茫然としている間も、時折屋敷を訪ねてきては他愛もないお喋りに付き合ってくれていた。
ルーファスは紅茶を一口飲んでから、カップをソーサーに戻した。テーブルにそれを置く仕草も優雅で美しいと思う。
「事情は分かった。……しかし一体どういう心境の変化だ? 先月会った時にはまだぼんやりとしていたように見えたものだが」
赤い瞳に宿るのは、わたしを気遣う心配の色。
今までの自分の様子を思い返して、あまりにもひどかったのだろうと苦笑いが漏れてしまった。
「何だか急にね、このままじゃいけないと思ったの。あなたにも沢山心配を掛けてしまったわね。ありがとう」
「それはいいんだが……教師、か」
「後妻を求めているような家でもいいんだけれど」
ルーファスはソファーに凭れると、長い足を組んだ。膝の上で両手を組み、何やら考え込んでいるように見える。
十五歳から十八歳まで通う貴族の学院で、彼とは知り合った。入学してからずっと同じクラスで、主席の座を競い合っていたのもいい思い出だ。学院を卒業してからもこうして付き合いが続いている事は素直に嬉しく思っている。
学院を卒業して、わたしは家で結婚の準備を整えていた。
ルーファスは王宮に文官として出仕し、その優秀さから第三王子の筆頭補佐官の座に就いている。今年の春に侯爵位を継いでからも、その仕事に変わりはないようだ。
考え込む彼の邪魔をしないよう、わたしはテーブルに並べられたお菓子へと手を伸ばした。
彼がお土産に持ってきてくれたチョコレートをひとつ摘んでみる。四角いひとくちサイズのチョコレートの表面には銀の粉がまぶされていてとても綺麗。
口に入れると、驚くくらいに柔らかく、あっという間に溶けていく。甘いけれどくどくない。中に混ぜ込まれているのはレモンだろうか。さっぱりしていて、舌触りも滑らかだった。美味しい。
「平民学校の教師枠が空くはずだから、そこに君を紹介するのは難しくないだろう。その前に君はもう少し体力をつけた方がいいと思うが」
「そうね。この一年、屋敷からはほとんで出てこなかったから。教師の職を紹介して貰えるなら、精いっぱい勤めたいと思うわ」
「家庭教師なら住み込みで、学校で教壇に立つなら一人暮らし……家を出たいという事か?」
「別に家族と不仲なわけじゃないのよ。ただこの一年間、迷惑ばかりかけてしまったから少しでも負担にならないようにしたくって」
「それで後妻でもいいなんて話になったのか。それなら……サフィア、俺と結婚しないか」
「結婚……あなたと、わたしが?」
「そう」
予想外の言葉にわたしは目を瞬いた。
彼の言葉を繰り返してみても、それがどういう意味をもっているのか理解できない。だって、わたしとルーファスの間に恋愛感情なんて無かったから。
「わたしとあなたは長い付き合いになるわよね」
「そうだな。十五歳で学院に入学して以来だからもう七年目か」
「仲の良い友人だと思うから、言葉を選ばずに伝えさせて貰うけれど。婚約破棄したわたしに同情しているなら結構よ。あなたにはもっといい人がいるんじゃないかしら。訳ありになってしまったようなわたしではなくて」
ルーファスは若くして侯爵位を継ぎ、第三王子殿下の筆頭補佐官として重用されている程に優秀な人だ。
それにこの美貌で、人当たりも良い。優しいし気遣いに溢れていて……今更ながら完璧な人だと思うのだ。友人としての贔屓目を抜きにしても、彼は素晴らしい人だと思う。幸せになって欲しい人だ。
「ただ結婚相手を探すつもりなら、もう学院時代から動いているさ。俺がそういった類の話から逃げていたのはサフィアも知っているだろう?」
「ええ。様々な家から婚約の打診が来ても、あなたは全て断っていたわね。パーティーだって全て欠席。唯一出たのは卒業記念パーティーだけど、あの時だってあなたは一人で参加して、パートナーは誰も選ばなかったわ。……煩わしいなんて言っていたけれど、その気持ちがまだあるの?」
この友人は送られる秋波にうんざりしているのか、そういった色恋沙汰を全て避けてきた。煩わしいんだ、と眉を顰めていたのを思いだす。
「幼い頃から追いかけ回されているんだ、そう思っても仕方ないさ。両親には結婚も子どもも望まないでくれと言ってあるし、理解は得ている。遠縁にちょうどいい年頃の子が居て、その子供や親の同意が得られたら養子を迎える事になるだろうな」
「そうなの……」
「俺を想う誰かと結婚をしたとして、俺がその気持ちを返せるとは思わない。結婚相手も辛い思いをするだけだろう。それを幾ら説明したって、周囲からの結婚に対する圧は強いし、断っても誘いが断たれる事もない」
「モテる人にも悩みがあるのね」
学院時代に令嬢達に追いかけ回されていた彼を見ている身としては、ルーファスがそう思うのも致し方ない事なのかもしれない。彼には彼の苦労があって、当人以外がそれに口を出す権利なんてないのだ。
「だから、だ。サフィア、俺と結婚しよう」
「結婚するつもりはないんでしょう?」
「友人だった君となら上手くやっていけると思う。もちろん妻として何かを望むわけじゃない。ただ、俺に
足を解いたルーファスがテーブルに身を乗り出してくる。
銀髪の隙間から見える赤い瞳が楽しそうに煌めいていた。
「君は教師として働きながら、俺の屋敷で暮らせばいい。侯爵夫人、既婚者という肩書は君の役にも立つと思うぞ」
「まぁそれは確かに……」
「対外的な場面では夫婦として立ち回って貰う事になるが……君が俺の隣に居てくれたら心強い」
「心強い?」
「面倒なパーティーなんかも、君が居れば楽しいって事さ」
楽しそうにルーファスが笑う。学院の時よりも少し大人びた笑顔だった。
つられるようにわたしも笑みを浮かべて、深く息を吐き出した。
「少し考える時間を頂戴。あなたの提案はとても有難いんだけど、今度はあなたに負担をかけてしまう事になるのはごめんだもの」
「俺がどれだけ断りの手紙を書いているか君は知らない。君と結婚する事でその苦行から離れられると思うと有難いのは俺の方だ。負担なんて欠片もないね」
冗談めかして笑うけれど、断りの手紙のくだりは本当の事だろう。
腕時計に視線を落としたルーファスは立ち上がる。外を見ればもう暗くなってきている。雪はいつのまにか雨へと変わっていたようだ。
「いい返事がもらえる事を期待している」
「数日中にお返事するわ。……ルーファス、ありがとう」
「君を助ける為だけに提案をしているわけじゃない。俺を助けられるのもサフィアだけだからな」
「ふふ。今回の事だけじゃなくて、ずっと。わたしが引きこもっていた間、会いに来てくれてありがとう。感謝の気持ちでいっぱいなのよ」
「俺達は友人だろう? 気にする事でもないさ」
低く笑ったルーファスがわたしの肩にぽんと触れる。
温かくて、力強い手だった。
「返事には鳥を飛ばしてくれ。どこにいても必ず受け取る」
ルーファスを見送って、自室に戻る。
新しい事を始める時のように、何だか胸が落ち着かない。彼の提案にきっと頷く事になるだろうと思いながら、もう少し考えてみようと思った。
わたしのこれからの事を。彼と進む未来の事を。
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