2.世界を取り戻して

 婚約を破棄してから、わたしは屋敷に引きこもり、家族や近しい友人とだけ過ごす日々を過ごしていた。


 春になり、庭の花壇や温室に沢山の花が咲いても心が動く事はなかった。

 夏を迎え、深い青空を見るのを厭うていつも以上に外には出なかった。

 秋が来て、燃えるような夕焼けに何故だか涙が零れ落ちた。


 そして季節が巡り、また冬が始まって──遠くの山が白く染まり始めた頃。

 離れの屋敷で兄夫婦と暮らしている甥と姪と一緒に、庭の池に張った氷を叩いて遊んでいた時だった。

 手袋をした手で、甥が氷を強く叩く。まだ薄かった氷に亀裂が走り、ぱきぱきと小気味の音が聞こえる。もっとと強請られて、魔法を使ってまたその氷を薄く張り直す。今度は姪が叩いて、割れた氷の中からは水が滲み出るように上がってくる。


 それを見ていたら何故だか急に、自分は何をしているのだろうと思った。このままではいけないと。

 自分を守る為に真綿に包まって、いつまでも傷付いた顔をしているわけにいかないのだと、漸く気付いたのだ。


 パチンと泡が弾けたかのように、世界が色を取り戻していく。


 見上げた空は薄曇り。

 いまにも雪が落ちてきそうなほどに寒く、風は冬の匂いを運んでいる。


 今までぼやけていた視界が、鮮明に世界を映しだした。

 心を守るだけだった日々は、もう終わりにしよう。


「サフィア姉さま、どうしたの?」

「ううん、何でもないわ。さぁ、そろそろ中に入りましょう。温かいココアなんていかが?」

「飲むー!」

「あたしも!」


 まだ幼い甥と姪は我先にと屋敷へ向かって駆け出していく。

 それを追いかけながら吐いた息は、白く空へと昇っていった。


*****


 夕食後、兄家族は離れへと戻っていった。

 兄嫁は優しい人で、いつも明るくわたしの事も気に掛けてくれる。甥と姪も可愛くて、二人と遊ぶのがわたしは大好きだった。


 賑やかだったサロンも、兄家族が戻ってしまうと一気に静かになってしまう。

 ブランデーを落とした紅茶を口にしたわたしに声を掛けたのは父だった。


「サフィア、私達は領地に戻ろうと思うんだ」


 ソファーに並んで座る両親がわたしの事を見つめている。その眼差しはわたしを気遣うような優しさに満ちていた。


「兄様が伯爵家を継ぐのね」

「ああ。まだ若いが問題ないだろう。領地から私達が手助けする事もできるからね」

「それでね、サフィア。あなたも私達と一緒に領地へ戻りましょう?」


 母の言葉に、わたしはすぐには頷けなかった。

 このまま、この王都の屋敷に居る事だって出来るだろう。伯爵となった兄家族がこの屋敷に住むけれど、今度はわたしが離れで暮らしたっていい。

 でもそれは、何だか違うと思った。


「少しだけ時間が欲しいの。わたしの、これからの事を考える為の時間を」

「サフィア……」


 心配そうな母の表情に、胸が締め付けられる。

 この一年間、わたしは幾度となく母にこんな顔をさせてしまったのだろう。

 それに甘えるばかりだった自分が、情けなかった。


「このまま王都にいるにしても、領地に戻るにしても、今のままじゃいけないって分かってる。先延ばしにはしないから、少しだけ」

「……分かった。よく考えて決めなさい」


 母とは違って、父はどこか満足そうに頷いている。

 カップを口に寄せて紅茶を飲み干したわたしは、就寝の挨拶をしてから部屋に下がった。



 湯浴みをして、寝支度を済ませたわたしは寝台の端に座っていた。

 光源はベッドサイドのランプだけ。ランプに向かって指を振ると、わたしの魔力に合わせて光が揺らめく。


「このまま皆に迷惑を掛けるわけにはいかないわ。でも……もう結婚は望めないかも」


 相手方の有責とはいえ、わたしは婚約を破棄している。成人をとうに過ぎて、二十一歳になっているわたしには良い縁談が来る事もないだろう。

 でも……それ以外なら? 訳ありの結婚なら出来るかもしれない。ドルチェネ伯爵家の為になるのなら、政略結婚だろうが構わない。


 それが難しいなら……教師として働くのはどうだろうか。

 わたしは魔法適性があるし、学院時代は中々に優秀な成績を収めてきたと自負している。伯爵令嬢としてマナーも学んでいるし、家庭教師として住み込みで働く事も出来るかもしれない。そうしたら家を出る事も出来る。

 平民が通う学校でも教師を募集しているなんて話を聞いた事があるし、わたしの魔法や知識が役立つのではないだろうか。身の回りの事を自分で出来るようになれば、どこかに小さな家を借りて一人で暮らしたっていい。


 最後の手段として修道院は──


「──だめだわ。修道院は寄付金が必要になるもの。家族に負担を掛けるわけにはいかない」


 今まではどうしていたのだろうと思うくらいに、色々考える事が出来る。

 失恋して、殻に閉じこもっている時の日々は勝手に流れていってしまうものだったのに。そんな中で何かを考える事なんて出来なかった。


「……わたしらしくなかったわ」


 そう、婚約破棄がなんだというのだ。

 結婚してからだと離縁が面倒。確かにロータルの言う通りだ。


 結婚してから夫の浮気を知るよりも、婚約を破棄した方がずっといい。

 あのまま結婚をしたとして、彼は遠からず同じように目移りした事だろう。早く分かったと思えばいいのだ。


 ……正直、思い出すとまだ胸が少し痛むけれど。一年もぼんやりしていたのだから、もう充分。動き出さなければならない。


「まず……教師になれないか相談してみましょう。それが無理なら伯爵家の利になるような家に嫁ぐ……それが第二の目標ね。それも叶わないようなら領地に戻って、父様の手伝いをして領民の為に過ごすのもいいかもしれない」


 うん、やるべき事は決まった。

 立ち上がったわたしはクローゼットに向かって、扉を大きく開け放つ。


 今ここにある、深い・・青色のドレスは全て処分しよう。

 次に青色のドレスを作るなら、自分の瞳の色のような明るめの青がいい。


 クローゼットに備え付けられた鏡に自分を映し、にっこりと微笑んでみる。

 波打つ黒髪は胸の下まで伸びてしまった。ロータルの好みに合わせていたけれど、この長さだってわたしによく似合うじゃない?


 鏡の中で微笑むわたしの青い瞳は、きらきらと輝いていた。


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