穏やかな契約結婚のはずが、溺愛されるなんて聞いてません!

花散ここ

1.冬の日、恋が終わって

 空も風も冬の色が濃くなっている。薄曇りの空からはらはらと舞い落ちる雪は、次第にその粒を大きくしている。

 暖炉に火が入った暖かな応接室で、わたし──サフィア・ドルチェネは婚約者と向かい合って座っていた。


 うなじでひとつに纏められた長い金髪は艶めいて、夏空のような青い瞳がまっすぐにわたしに向けられている。

 ロータル・ガイスラー。隣国で王立騎士団に所属している、七年前からのわたしの婚約者。

 隣国に暮らす彼とは頻繁に会えるわけではない。今日は三か月ぶりにドルチェネ伯爵家を訪問してくれて、わたしは朝からそわそわと落ち着かない気持ちでいっぱいだった。

 彼の好きな紅茶とクッキーを用意して、今日は久し振りに沢山お話が出来ると楽しみにしていたのだ。

 それなのに、彼の表情はひどく固い。すうっと大きく息を吸った彼が口を開く。


「サフィア、君との婚約を解消したい」


 用意された紅茶に手をつけず、わたしをじっと見つめたままに紡がれたのは、そんな残酷な言葉だった。

 心臓が気持ち悪いくらいに騒がしくなる。どうして、と問い掛けたいのに、口を開いても漏れるのは掠れたような吐息ばかりだ。


「君は魔法適性もあって優秀な女性なのかもしれないが、可愛げがないんだ。俺は家庭に癒しを求めるが、君ではそれを与える事など出来ないだろう?」

「わたし、では……だめだと言うの?」

「ああ」

「わたし達、仲良くやってきたじゃない。もう七年よ。冬が明けたら結婚するって……」

「結婚したら離縁するにも面倒だろう。だから今なんだ」


 ぐらりと眩暈がする。力が入らなくてソファーに深く凭れたわたしは、深呼吸を繰り返した。

 暖炉に目を向けると炎が強く揺らめいている。それなのにひどく寒い。がたがたと震えそうな体は、無意識に指先を暖炉に向けて炎を強めるべく魔法を使っていた。


「君のそういう所も好きじゃない。魔法を使える自分をひけらかすような下品な真似がね」


 苦々し気に眉を寄せたロータルが、吐き捨てるようにそう言った。

 どうして。どうしてそんな酷い事を言うの。


「愛しているって言ってくれたじゃない。わたしだってあなたの事を愛しているわ」

「それはまだ子どもだったからさ。騎士団に入って、俺の世界は広がったんだ。君以上に素晴らしい女性が居るのを知る事が出来たくらいにね」


 その言葉がどれだけわたしを傷付けるのか、彼は分かっていないのだろう。その口元が誰かを想うように綻んでいる。

 彼の心は既にわたしにはないのだと思い知らされる。堪えきれずに涙が零れた。一度零れた涙は止まる事なく溢れ出るばかりだ。

 そんなわたしを見て、彼は面倒そうに眉を顰めた。


「婚約解消なんて今時珍しいものでもないだろう。幼子じゃないんだから、そんな事で泣かないでくれないか」


 溜息交じりの言葉に、心が抉られていく。

 彼はわたしを、わざと傷付けようとしているのだろうか。そんな事を考えてしまうくらいに。

 彼の瞳のような青色のドレスを着ているわたしが酷く惨めに感じた。スカートの布地をぎゅっと握り締めると、溢れた涙で濡れている。


 不意にばたばたと廊下を走る複数の足音が聞こえた。

 伯爵家うちのメイド達は走ったりしない。それだけ急ぎの何かがあるのだろうか。


「サフィア!」


 大きな声と共に入室してきたのは、わたしの両親とガイスラー伯爵夫妻──ロータルのご両親だった。

 そちらに目を向けると青い顔をした執事も見える。きっと彼が父達に知らせてくれたのだろう。婚約者とはいえ妙齢の男女が部屋に籠もるのは宜しくないと、応接室の扉は開かれていたから。


「一体何があったの。ロータル、サフィアちゃんに何をしたの」


 顔色を悪くしたガイスラー夫人がロータルに詰め寄るけれど、彼は平然としている。今更になってカップに手を伸ばし、紅茶を一口飲むと気に入らないように眉を寄せた。


「ロータル、あなた……好きな人がいるのね」


 ぽつりと呟いたわたしの言葉に、両親とガイスラー夫妻が息を飲む。

 ここにはいない誰かを思い浮かべたのか、ロータルだけが幸せそうに微笑んだ。


 ああ、わたしの恋は終わったのだ。

 彼の笑みを見て、それが覆る事はないのだと理解してしまった。


 彼の心がわたしに向く事はもうないのだろう。

 いくらわたしが縋っても、愛を伝えても、きっと煩わしく思われるだけ。


 でも、わたしのこの想いは……一体どうしたらいいのだろう。

 伝えたって受け取って貰う事も出来ない。自分の中で飲み込んで、消えてなくなるのを待つしかない。

 それがどれほど惨たらしい事なのか、きっとロータルは分かっていない。


 彼が見つめているのは、想い人との未来だけだ。


 目の前が暗くなっていく。

 まるで水の中に沈んでしまったかのように、音はくぐもり、視界は揺らぐ。

 何もかもが遠く感じる。


 *****


 それからの事はあまりよく覚えていない。

 茫然とするわたしに代わって、両親が全てを終わらせてくれたそうだ。


 ロータルの有責で婚約は破棄となった。

 わたしが十三歳、ロータルが十五歳の時に結ばれた婚約は、こんなにも簡単に破棄されるものだったらしい。七年間、時間だけではなくて想いも積み重ねていたと思っていたのはわたしだけだったのだろうか。


 元々、ガイスラー夫人とわたしの母が友人同士で、わたしとロータルは幼い頃からよく遊んでいた。

 いつしかお互いに想い合うようになって婚約が結ばれたのに……だめだ、思い出したらまた胸の奥が苦しくなる。掻き毟ってしまえばこの痛みも落ち着くのだろうか。


 母とガイスラー夫人の付き合いも、途絶えたらしい。

 友人を失う事になった母には申し訳ないけれど、助かったと思ったのを覚えている。


 ガイスラー夫妻にも、ロータルにも、もう二度と会いたくない。



 この胸の痛みはいつになったら消えるのだろう。

 恋が破れる事が、こんなにも苦しくて、切なくて、寂しいものだったなんて。


 ──知りたくなかった。

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