26.初恋の人
ルーファスにエスコートされて、用意されたボックス席へと向かう。
クリーム色の壁や柱には細やかな装飾が彫られていて、その一つ一つが神話やお伽噺の一幕だったりして見ているだけでも楽しくなってくる。
壁に付けられた照明は仄かな明かりで場内を照らしている。
ルーファスを先導する劇場の支配人が、二階席の入口で足を止めた。
「こちらのお席がヴィント殿下より贈られております」
「ありがとう」
ルーファスは平然としているけれど、わたしは心臓がばくばくと騒がしくなっていた。
エスコートされているからだけではなくて、支度をした彼の姿が素敵だったから……でもあるのだけど。案内された席に驚きを隠せなかったのだ。
支配人が扉の前で指を回す。鍵がカチャリと回る音がしたかと思えば、ゆっくりと扉が開いていく。
鍵と扉は魔導具の一種なのだろう。普通の鍵ではなく登録者──この場合は支配人など数人しか開けられないであろう重要な部屋。
「ではどうぞごゆっくり」
ゆったりとした一人掛けのソファーが二つ並んでいる。わたしを左側に座らせたルーファスが隣り合うソファーへと腰を下ろす。
それを見届けた支配人がルーファスへと鍵を渡して去っていく。彼の手にあるのは白い水晶が飾られた独特の鍵。出入りする為に使うもので……恐らくだけど今日限りしか使えないものなんじゃないだろうか。
席に着いたまま改めて劇場内を見渡してみる。
正面には大きなステージ。ステージの下に用意されているオーケストラの席まではっきりと見える良い席だった。
それもそのはずで……ここは王族や貴賓のみに座る事を許されている特別な席だから。
「……こんな席、いいのかしら」
「ヴィント様が用意して下さったんだから問題ないんだろう」
「緊張で胸がおかしくなりそうよ」
「王族を差し置いて座っているならともかく、今日は王族の観覧はないそうだから問題ないよ。大丈夫」
ルーファスの声は落ち着いていて、わたしのような焦りなんて微塵も感じられない。
その声を聞いていたらわたしも安心していく。彼が大丈夫と言えば、本当に大丈夫だって分かっているから。
「じゃあ折角の機会だし、楽しまなくちゃね」
周囲に目を向けるとステージ左右にあるボックス席にも、ステージ正面の客席にも人が座り始めていた。左右のボックス席は四階まであって、円形の劇場に沿うように配置されている。それぞれ十席ずつだろうか。
わたし達の座る二階ボックス席の上に席はない。他の席よりも広く作られているのも、王族・貴賓専用というのが分かる。
「サフィア、そのドレスもよく似合っている。気に入ってくれるといいんだが……」
掛けられた声に、ルーファスへと顔を向ける。
優しく微笑むその姿は学院時代から変わらない。無表情だなんて言われる彼だけど、わたしやヘレンの前ではよく笑う人だった。
「あなたが選んでくれたと聞いたわ。素敵なドレスをありがとう」
スカート部分に施された銀の刺繍を指でなぞる。
丁寧に編まれたレースも美しくて、感嘆の溜息が漏れる程だ。
ルーファスもわたしとお揃いの衣装だというのは一目で分かった。
同じ黒のジャケットに、銀のタイ。細身のズボンも彼に良く似合っている。わたしが着ける髪飾りと同じ花飾りを、胸ポケットにさしているけれど……その色は明るい青色をしていた。
「あなたってやっぱりセンスがいいし、わたしの事をよく分かってくれているのね。わたしがどんなものを好きなのか、知ってくれていて嬉しいわ」
「君は分かりやすいというのもあるが、見ていたら分かるんだ」
「そうなの? ……そんなに分かりやすいかしら」
「それだけ俺が、君を見ているという事だよ。君にどんなドレスが似合うか考えているのも楽しい時間だった。ドレスに関してはいつもヘレンに持っていかれるからな」
わたしをちゃんと見ていてくれている。
それが嬉しくて、わたしの事を考えてくれているのが幸せで。
好きって気持ちが溢れてしまいそうで、胸が苦しい。
「ありがとう。今度はあなたの衣装をわたしに選ばせてくれる?」
「それは嬉しいな」
「あなたほどのセンスの良さは発揮できないかもしれないけれど……あなたに似合うもの、あなたが好きなもの、それからわたしの好きなものを選びたいわ」
「君が選んでくれるならどんな衣装でも着るぞ」
「そんな事言って後悔しないでよ?」
声を潜めて笑うと、ルーファスも同じように笑みを零す。
それが向けられるのはわたしだけだと……仄暗い感情が心に浮かぶ。それを押し殺して、わたしは深い息を吐いた。
これは契約結婚だと、自分に言い聞かせて。
お喋りを楽しんでいたら、客席はすっかり埋まっていた。
もう開演時間も近い。
オーケストラが配置につく。
照明がゆっくり落とされていき、幕が上がった。
***
美しい少女がいた。
その少女に想いを寄せる魔法使いがいた。
魔法使いがいくら愛を囁いても、輝かしい贈り物をしても、少女の心が魔法使いに傾く事はなかった。
受け入れられない愛は憎しみへと向かう。
魔法使いはその命全てを使って、少女を呪う事にした。
呪いを受けて竜へと姿を変えられてしまった少女。
その身に宿す呪いを振り撒く災厄となってしまった少女に救いはなかった。
心と相反して、竜の爪は街を崩し、竜の牙は山を壊す。
涙に暮れても泣き叫んでも、竜の口から放たれるのは呪いを纏った炎の咆哮。
その呪いがほんの一時だけ解ける夜があった。
満月の夜。輝かしい白銀の光が降り注ぐほんの僅かな時間だけ、少女は元の美しい姿に戻る事が出来た。
元の姿に戻っても、月光が消えてしまえばまた呪われた竜になってしまう。
呪いによって自害も許されていない少女は、月の光を浴びながら涙を零す以外に出来る事はなかった。
***
幕が下りる。
第一幕が終わり、照明がひとつずつ灯されていく。
すっかり舞台に夢中になっていたわたしは、幕が下りてやっと息を吐く事が出来た。
浮かぶ涙を堪える事も出来ず、ドレスの隠しポケットから取り出したハンカチで押さえても涙は頬を伝っていく。
ソファーに深く背を預けて深呼吸を繰り返すと、隣に座るルーファスが手を握ってくれた。
「ごめんなさい、泣いてしまって。うるさくなかった?」
「いや、全然。何か飲むか?」
「わたしはやめておくわ。ルーファスは飲んでもいいのよ」
「そうだな……ワインを用意するから、飲みたくなったら飲むといい」
「ありがとう。わたしはお化粧を直してこようかしら」
そう言うとルーファスがサイドテーブルに手を伸ばす。置いてあった魔導具のベルを振っても、わたし達の元では何も聞こえない。
これは貴賓室で待機してくれているミラとユリウスにだけ届くものだから。
来てくれたミラと共にボックス席を出る。
休憩時間中は席を離れる人も多いようで、階段上から見えるエントランスロビーは沢山の人で賑わっていた。
貴賓室への廊下を歩いていると、高い女性の声が聞こえた。
随分と陽気な声だと思いながら角を曲がると、ロビーへ向かう令嬢達が見える。この人達の話し声が聞こえたのだろう。
「ベルネージュ侯爵、とっても素敵だったわね」
「あなたったら舞台よりも侯爵の方ばかり見ていたわね」
「隣に居た奥様もお綺麗な人だったわ」
「仲睦まじいように見えるけれど……ねぇ、知ってる? ベルネージュ侯爵には昔からずっと想っている初恋の人がいるんですって」
「え? それは奥様と別の人ってこと?」
「そう。初恋の人とは決して結ばれないから、友人だった奥様と結婚なさったって話よ」
「ああ……なるほどねぇ。前に噂が流れた時も不自然とは思っていたのよね」
「ドルチェネ伯爵令嬢をずっと想っていたってやつでしょう? あの噂も急だったから、今思うと何かを隠しているのかもしれないわよね」
華やかなドレスを着た二人の令嬢は、わたし達に気付くことなくボックス席へと戻っていく。
立ち止まったわたしは、そこから動く事が出来なかった。
「奥様、今のは──」
「お願いがあるの。今の話はルーファスに言わないで」
「ですが……」
「お願い、ミラ」
眉を下げるミラは心配そうに黒い瞳を翳らせている。
大丈夫だと安心させたくて微笑んで見せるけれど、頬が引き攣っている感じがする。
「さ、お化粧を直してきましょう。この分だと第二部も泣いてしまいそうだわ」
わたしは明るい声で言葉を紡ぎ、また歩き始めた。
『昔からずっと想っている初恋の人がいる』
小さな棘が刺さったように、胸の奥がちくちくと痛む。
震えそうになる吐息を飲み込んで、持っていた閉じた扇をぎゅっと固く握りしめた。
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