27.宣誓

 席に戻ると、赤ワインが用意されていた。

 わたしを待ってくれていたのか、ワインはグラスに注がれていたけれど、ルーファスはそれに口をつけていない。


 ルーファスは微笑んでいる。

 蕩けるくらいに甘やかでな笑みに、わたしは心のどこかで勘違いをしていたのかもしれない。

 この微笑も、熱の宿る眼差しも──わたしじゃない誰かに注がれるものなのに。


 ***


 呪われた竜の力を抑える事など少女には難しく、せめてもと人里から離れる事以外に出来なかった。


 辿り着いたのは万年雪の凍てつく大地。

 厚い氷が割れて出来たクレバスにその身を踊らせて、丸くなって眠りに就こうとした。


 この爪がもう人に届く事のないように。

 この牙がもう幸せを壊す事のないように。


 氷の中で、もう目覚めたくないと少女は願って目を閉じた。

 呪いもろとも、ここで凍り付いてしまえたらいいのに。


 吹き荒ぶ風が怨嗟の声に聞こえる。

 雪で視界が白く濁る。

 少女はずっと独りぼっちだった。今までも、そしてきっと──これからも。



 どれだけの間、そうしていただろう。

 呪いは竜の体を動かそうとするけれど、凍った体はうまく動かない。


 不意に、人の匂いがした。

 薄く目を開けると、そこに居たのは一人の青年。少女にはその青年に見覚えがあった。


 彼は少女の初恋の人。そして青年にとっても、彼女は初恋の人だった。

 この呪いがなければ一緒になっていたはずの二人。

 青年は呪われた竜となり、その姿を消してしまった少女の事をずっと探し続けていた。


 青年は竜の姿である少女に、自分を食べるように乞う。

 そうすれば呪いが解けると魔法使いが教えてくれたと口にする。


 そんな事をできるわけがないと少女が叫ぶ。

 しかしそれは竜の咆哮にしか聞こえずに、クレバスの氷壁にひびが入った。


 呪われた竜にとって、目の前の青年はご馳走にしか見えない。

 少女がどれだけ拒んでも、竜の体は彼女の意思を無視して大きく口を開く。

 青年は自らその口の中に入っていった。


 竜の口が閉じる。

 その瞬間、竜の口から溢れた光は熱となって氷壁を消していく。

 吹雪は止み、氷は消え、広がるのは花畑。


 芳しい花香の中で少女と青年が起き上がる。


 自分を犠牲にしてでも少女への愛を貫いた青年。その愛で呪いは解けたのだった。


 ***


 幕が上がって、俳優たちが手を繋いで一斉に綺麗な礼をする。

 盛大な拍手はオーケストラの演奏さえも掻き消してしまうほどだった。


 拍手をしながら、わたしの頬に涙が伝う。

 感動的でとても素敵な恋物語。初恋の人の愛を受けて、少女の呪いは解けた。


 これ以上ないハッピーエンドだろう。

 お芝居はとっても素敵だった。この舞台を元にした小説が発売されると聞いたから、それも手に入れようと思うくらいに。


「どうだった?」

「とても素敵だったわ。呪われた竜となってしまった少女の苦悩も、彼女を諦める事の出来なかった彼の強さも……うまく言葉に出来ないけれど。幸せな結末を迎える事が出来て本当に良かったって、そう心から思うくらいに」

「それを聞いたらヴィント様も喜ぶだろう。伝えておくよ」

「こんな拙い感想でもいいのかしら。オーケストラも、ライティングも、もちろんお芝居をしている俳優の方々も素晴らしくって……何だか足元がふわふわしているみたいな高揚感に包まれているの」

「気に入ったならまた来よう。この演目でも、また違う演目でも」


 ルーファスの優しい声に、ただ頷く以外に出来なかった。

 また浮かんだ涙をハンカチで押さえたけれど……これが何の涙なのかは、自分でもよく分からなかった。



 お屋敷へ帰って、盛装を解いて湯浴みをする。

 その間中、ミラは何かを言いたげな目線をわたしに送っていたけれど、それには気付かないふりをした。


 何でもないと。

 気にしていないと。

 そう見えるように微笑みを浮かべていたけれど、それが自分に言い聞かせるようなものだったって分かっている。


 休む準備が出来た頃には、既に日付も変わっていた。

 明日はお寝坊してしまうかも。なんて冗談めかしてミラに告げると、「そうして下さいませ」なんて真剣な顔で言われてしまった。


 ミラが下がり、一人になった部屋の中は何だか少し寒く感じる。

 ベッドに潜り、指を振って明かりを消すとあっという間に部屋が暗闇に包まれた。自分の呼吸だけが聞こえるけれど、それがやけに大きく響く気がする。


 また指先を振って、ベッドサイドの明かりだけを僅かに灯した。

 ぼんやりとした灯火を見て、何だかほっと安心してしまった。


 ルーファスにはずっと想っていた初恋の人がいる。

 それが本当の事なのかどうかは分からない。噂話に過ぎないのかもしれない。


 でも……ずっと彼の側にいた友人のわたしには、それが腑に落ちてしまうのだ。

 彼が女性を近付けなかったのは、想う人が既にいたからではないのだろうか。


 初恋の人とは決して結ばれない。

 だから彼はずっと一人でいる事を選んでいたのだろうか。


 ルーファスはそういう真っ直ぐな人なのだと、わたしは知っている。

 初恋の人を忘れる事なんて望んでなくて、添い遂げる事が出来なくてもずっと……その人に想いを傾け続けていたのだろう。


 そしてそれは、きっと今も。


 じわりと涙が滲んで、枕に顔を埋める。震える息は嗚咽に変わり、声を殺してわたしは泣いた。


 初恋の人を想っていたルーファスに、こんな契約結婚をさせてしまった事。

 仲睦まじい様子を見せる為に、彼に演技をさせてしまった事。

 そのどれもが、きっと心を殺すくらいに辛いものだっただろう。

 わたしは自分が楽になる為だけに、どれだけの彼を傷付けて来たのか。



 しばらく泣いて、涙も落ち着いた頃。

 起き上がったわたしはのそのそとベッドから降りた。指を振って部屋の明かりをつけ、書き物机へと向かう。


 引き出しから一枚の紙を取り出して、魔法誓約の紋を刻んだ。

 指先がわたしの魔力と同じ青色に染まっている。


 ──サフィア・ベルネージュはルーファス・ベルネージュが望めば離縁する事に同意する──


 署名をすると宣誓書が出来上がる。

 自分から離縁を告げられないわたしは卑怯だ。


 だからせめて、ルーファスが離縁したいと思った時に、その手続きの邪魔にならないように宣誓書を作った。

 わたしへの戒めでもある。彼に心を傾け過ぎる事のないように。彼に愛して貰うなんて望まないように。


 宣誓書を机の引き出しにしまいこんで、わたしはまたベッドへと戻った。

 また部屋の明かりを落としてから、目の周りに治癒魔法をかけておく。目の腫れを誤魔化す事は出来るだろう。


 またじんわりと涙が滲む。今夜はもうずっと、涙と付き合わなくちゃいけないみたいだ。

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