35.重なる
ゆっくりとルーファスの腕が離される。
それでも向かい合うわたし達の距離は近く、彼の手はわたしの両手を包み込んでいる。
「愛する人と一緒になるのはもう叶っているんだが。最近君が俺を避けていたのが、そんな宣誓書を作る理由か?」
「待って、いまとんでもない事を言わなかった?」
「とんでもない事じゃない。俺にとっては本当の事で……それは後でちゃんと話すよ。まずは君が、どうしてそんな考えに至ったのか。何があったんだ?」
彼は何でもないように話を続けるけれど、わたしの心臓はばくばくと騒がしい。
落ち着く為に深呼吸を繰り返すと、それさえも彼に笑われて。ルーファスの笑みが甘やかで、心臓が落ち着いてくれるのはまだまだ先の話みたいだ。
「えぇと……お芝居を見に行ったあの日。休憩時間に控え室に戻る時にね、どこかのご令嬢が話しているのを聞いてしまったの。『ベルネージュ侯爵には昔からずっと想っている初恋の人がいる。初恋の人とは結ばれないから、友人だった奥様と結婚した』って」
「……昔、学院時代に『初恋の人を忘れられない』と一回だけ零した事がある。それが今になって、どこかで出回ったのか」
やっぱり、いたんだ。
体が強張った瞬間、彼にまたきつく抱き締められていた。
「待て、変な事を考えるな。整理して話そう」
泣きたくなるのを堪えながら何度も小さく頷くと、彼の腕から力がゆっくり抜けていく。まだわたしは、彼の腕檻に囚われたままだけど、その距離が心地よかった。とくんとくんと聴こえる少し早い鼓動は、わたしのものなのか、彼のものなのか。
「まず、俺に初恋の人がいるというのは事実で……それは、君の事だ」
「……わたし?」
「ああ。くそ、本当ならもう少し恰好つけて想いを口にしたかったんだが」
顔を上げると不貞腐れたように見える彼の様子が珍しくて、少し笑ってしまった。
わたしの視線に気付いたルーファスが、眉間に皺を寄せながらわたしの額に口付けをくれる。
「俺は学院で出会った時からずっと、サフィアの事が好きだった。君と出会って初恋を知ったけれど、この恋が叶う事がないのは分かっていた。君には婚約者が居たからね」
確かに学院に入学した時、わたしはロータルと婚約をしていた。
彼は……そんな前から、わたしを想い続けてくれたというのか。だって、わたし達はもう七年の付き合いになるのだ。
「君が婚約者を好いているのは知っていたし、君の幸せを邪魔する気は欠片もなかった。だから俺は、君の……一番の友人であろうと思った。友人としてでも君の側に居たかったんだ。……気持ち悪いと思ったら遠慮なく責めてくれていい」
声が次第に小さくなる。
そんな様子さえ愛しいと思ってしまうのだから、わたしはもうルーファスの事が好きで仕方ないのだろう。
「責めないわ。わたしを想ってくれてありがとう。わたしを好きになってくれて……本当に嬉しい」
わたしが婚約している時、彼は自分の気持ちを悟らせるような事は一度もなかった。それはわたしの幸せを一番に考えてくれていたからだろう。
囁いた言葉にほっとしたように、ルーファスが表情を和らげる。いつもより幼く見えるその様子に、また鼓動が跳ねた。
「君が婚約を破棄して、無気力になって……それでも、君に想いを告げるつもりはなかったんだ。弱っている君につけこむような真似はしたくなかったんだが……契約結婚という形で君を囲い込んで、俺を好きになって貰おうとした行動は褒められたものじゃなかったな」
「契約結婚だって、わたしの為にしてくれた事でしょう? それに……わたし、あなたと結婚して良かったって思っているもの」
「そう言ってくれると安心するよ。」
嬉しそうに微笑んだルーファスが、わたしのこめかみに唇を押し当てる。彼に触れられた場所が、燃えているかのように熱い。
「サフィア、ずっと君の事が好きだった。これからも俺の愛は君だけに捧ぐよ」
紡がれる睦言に心が震える。
胸の奥が切なくて、ぎゅっと疼いて苦しくて、でも──溢れる気持ちは愛おしさ。
「わたしもルーファスの事が好きよ。あなたとこれからも、ずっと一緒に居たい」
わたしの言葉に目を瞬いたルーファスが嬉しそうに破顔する。きっとこの顔を見られるのは、わたしだけなんだろう。そう思うくらいに、優しくて甘やかな笑みだった。
「嬉しい。きっと嫌われてはいないだろうとは思っていたけれど、好きと言って貰えるのはこんなにも幸せな事なんだな」
ぽつりと呟いたルーファスが、愛しくて堪らなかった。
もっと気持ちを伝えたいと思うのと同じくらい、彼の口から想いを告げて欲しかった。
わたしから体を離したルーファスが、向かい合って姿勢を正す。わたしの左手を取った彼は、薬指に咲く
「サフィア、改めて俺の妻になってくれないか。契約ではなく、想い合う夫婦として君と過ごしていきたい。何があろうとも俺は君を裏切らない。俺の心はサフィア、君だけのものだとこの花に誓うよ」
こちらを見つめる色を濃くした赤の瞳が、わたしの事を想っていると伝えてくる。
声には熱が宿り、紡がれる言葉はわたしの心に真っ直ぐに響いてきた。
涙が零れて、吐息が震える。
頬を伝う涙もそのままに、わたしは何度も頷いていた。
「わたしも、ルーファスと本当の夫婦になりたいわ。あなただけを愛して、ずっと傍に居る。わたしもこの花に誓うわ」
取っていたわたしの手をルーファスが引っ張るから、わたしの体は簡単にルーファスの方へと倒れてしまう。
わたしを受け止めたルーファスは、またぎゅうぎゅうに抱き締めてきた。機嫌よさげな笑い声が聞こえてくる。
想いが重なる幸せに心が満たされていく。
「もう離縁の意思を示す宣誓書なんて作らないでくれよ」
「ええ、もうしないわ。あなたがわたしを好いてくれて、わたしの気持ちも受け止めてくれるって分かってるから」
契約結婚から始まって、随分遠回りをした気がする。
でもきっと、いまのわたし達には必要な日々だったのだ。
少し体を離したルーファスが、わたしの顎に手を掛ける。そのまま少し上を向かされて、わたしはゆっくりと目を閉じた。
吐息が触れる。唇が重なる。
熱が同化してしまうくらいに、ずっとわたし達は口付けをしていた。
今までの時間を埋めるかのように。
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