36.機嫌(ルーファス)

 ルーファスはひどく機嫌が良かった。

 昨日、サフィアと気持ちが通じ合ったからだ。それ以外に色々と面倒な事はあったけれど、この幸せを想えば些事に過ぎなかった。


 機嫌の良さに比例するように、仕事も進む。

 新たな書類を持ってきた部下が、ルーファスの様子に目を丸くする。いつも無表情な上司の口元が幸せそうに綻んでいるからだ。

 何があったか聞きたい気持ちを押し隠して、部下は書類だけを置いて部屋を後にした。



 ルーファスは書類にペンを走らせながら、昨日の事を思い出していた。

 ヘレンから鳥が飛んできたのが、昨日の朝早くの事。短い手紙を咥えた鳥はヘレンとお揃いの小さな眼鏡をかけていた。


 サフィアが元婚約者に絡まれた。

 それだけで、急遽帰る為の理由としては充分だった。


 本来は昼食を皆で食べてから帰城し、上司である第三王子殿下に報告をして、夕方頃に屋敷に戻る予定だった。

 視察自体は終わっていた事もあり、一緒に視察に出た部下たちには申し訳なかったが先に帰らせて貰う事にした。ヴィント殿下には鳥を飛ばして許可を貰っていたから問題ない。

 元々自分が支払うはずだった食事代も、レストランに支払いをすませておいたからそれも問題ないだろう。

 今朝会った部下たちも視察疲れなど見せなかったから、ゆっくり休めたのかもしれない。


 諸々を済ませて転移をしたが、まさか屋敷にアイリス達が来ているとは思わなかった。

 サフィアを傷付けて、部屋を荒らして……それでもアイリス達は自分達が悪い事をしているとは思っていないのだろう。

 除籍もまだ生温い処分だったかもしれない。


 あの後、父に叔母の事を報告したのだが、前当主としてもその処分が妥当だと認めてくれた。

 これでもう、叔母やアイリスにサフィアが傷付けられる事はないだろう。


 決済箱に纏めた書類を入れたルーファスは、次の文書を手にして、それをさっと読んでいく。

 部屋の中が翳った事に気付いて、窓へと視線を向けると厚い雪雲が空を覆って太陽を隠している。既にはらはらと雪も降り始めていた。

 机の上の小さな装置に触れると、一瞬で部屋の明かりが灯される。何度かその装置に触れて明度を調節したルーファスは、深く息を吐き出した。


 今朝も言葉を交わしたのに、もうサフィアに会いたい。

 触れて、抱き締めて、キスをしたい。


 零れた溜息も恋慕に染まっていて、ルーファスは自嘲にまた息をついた。


 さて仕事に戻ろう……そう思った時、勢いよく廊下を走る音が聞こえた。この塔内で、あんな風に走る事の出来る人なんて一人しかいない。


「やぁ、ルーファス! デンドラム夫人を追放したんだって!?」


 ノックもしないで扉が開く。にこにこと楽しそうに笑いながらそんな言葉を口にしたのは、ヴィント第三王子だった。


「声が大きいですよ」

「いやぁ、とうとうやったかと思ってさぁ」


 あはは、と笑いながらヴィント王子は応接セットのソファーに座る。

 席を立って部屋の隅に用意されているワゴンに向かったルーファスは、まだ温かいポットから紅茶をカップに注いだ。ソーサーに載せてからトレイに置き、ついでに自分の分もカップに注いでソファーへと歩みを進めた。


 ふわりと立ち上る華やかな香り。

 ヴィント王子の前と、自分の前にカップを置いてから、ルーファスもソファーに腰を落ち着けた。


「子爵令嬢にずっと付きまとわれてたでしょ。親戚だから他の令嬢よりチャンスがあるのかと思っていたかもしれないけどさ。その令嬢もやり込めた?」

「それなりに。デンドラム夫人はベルネージュ侯爵家から除籍になりました。それに伴い、娘のアイリスも侯爵家の縁戚という関係を失くす事になります。アイリスはサフィアの部屋に侵入して部屋をひどく荒らしたので、その弁償は父親であるデンドラム子爵にお願いする事になりました」


 昨日の件を掻い摘んで話すと、ヴィント王子は楽しそうに笑うばかりだ。

 ルーファスの用意した紅茶に砂糖を三つ落とし、スプーンで掻き混ぜている。その手元からはざりざりと独特な音がし続けていて、溶けるまでにはまだ時間が掛かりそうだ。


「結構な金額になったでしょ。払うのが嫌で、デンドラム子爵が離縁なんて言い出したらどうするんだい?」

「離縁はしないよう、デンドラム子爵にお願い・・・してあります。もう関わらないでくれたらサフィアへの慰謝料は不要だと、サフィアからは言われていますしね。俺からも賠償額は半分でいいと言いました。その代わりの、お願い・・・になるんですが」

「なるほどねぇ。離縁してもしなくても、子のした事での支払い責任は親である子爵にあると。子爵はそれを飲んだんだ?」

「はい。実際に賠償金、それから慰謝料を全額となると、爵位を維持できるかも怪しいところでしょう。俺としては代償を払って貰えるなら、金じゃなくて構わないので」

「妥当なところだね。これで離縁ってなったら、デンドラム夫人は侯爵家を頼らざるを得ない。でも絶縁されているから頼れなくて……と逆恨みされても困るもんね」

「まぁ実際に離縁したら、うちの分家のどこかで面倒を見るくらいはするでしょうけれど。あのまま放逐したら平民になっても問題事しか起こさないでしょうし、他人に迷惑を掛けるような事は俺としても避けたいので」


 席を立ったヴィント王子は、壁に備え付けられている棚を勝手に開ける。いつもの事だと声を掛ける事もせず、ルーファスは紅茶を一口飲んだ。

 目当てのものを見つけたヴィント王子がソファーに戻る。王子がこの部屋に置いておいたチョコレートの箱だ。ルーファスの執務室だけでなく、この塔の至る所にヴィント王子は自分のおやつを置いているのだ。


「食べる?」

「いえ、結構です」


 このやりとりもいつもの事だ。

 木の葉の形を模したチョコレートをひとつ口に入れながら、ヴィント王子はじっとルーファスを見つめた。どうかしたのかとルーファスが首を傾げると、にんまりと笑った王子が口を開く。


「で? 君はどうしてそんなに機嫌がいいの?」

「俺の機嫌ですか?」

「うん。昨日そんな面倒事があったくせに、今日は随分とご機嫌だよね?」

「分かりますか」

「君は案外分かりやすいよ」

「そう仰るのはヴィント様だけですが。でもそうですね……機嫌は良いと思います」


 そう答えたルーファスの口元が笑み綻ぶ。自分でもそれに気付いて、ルーファスは口元を手の平で覆い隠した。


「何があったの?」

「サフィアが、俺を好きだと言ってくれたんです」

「へぇ! じゃあ片思い卒業って事? 君もちゃんと想いを伝えたんだろうね?」

「それはもちろん」

「でれでれじゃないか。まあ友人としても君の恋が叶った事は嬉しく思うよ。そんな君にひとつ教えてあげよう」


 喋りながらもヴィント王子の手にする箱からチョコレートがどんどんと口の中に消えていく。

 噛まないで飲み込んでいるんじゃないだろうか。そんな事をルーファスが思っていると、不意にヴィント王子の声が低くなる。


「奥方の元婚約者、ロータル・ガイスラーなんだけど。まだ帰国していないよ」

「……そうですか」


 ルーファスの瞳に剣呑な色が宿る。それを見たヴィント王子はまたおかしそうに笑った。


 一昨日の夜会の件は、まだサフィアに聞けないでいる。

 昨日はアイリスの事でサフィアも疲れていたし、離縁に承諾する宣誓書をサフィアが用意していたという事でルーファスの頭もそれでいっぱいになってしまったからだ。


 しかし今日は、夜会の件をちゃんと聞かなければならない。

 もうサフィアが傷付くような事は、あってはならない。


 風の音で窓が揺れる。

 視線を向けた先、四角い窓の向こうでは雪も風も強くなっていた。

 遠くの景色が霞むほどに。

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