17.自覚した心

 夜会から数日が経ち、また落ち着いた日常が戻って……きたかといえば、そうではなく。

 何か問題があるわけではない。侯爵家の皆も相変わらず良くしてくれて、ルーファスも優しくて……そう、彼らは何も変わらない。


 変わったのは、きっと、わたし。



 ルーファスが用意してくれた学校の教材を読んでいたわたしは、ふぅと深い息をついた。魔導書を閉じ、両手を天井に向けて大きく伸びをする。凝り固まっていた体が解れてくのが気持ちいい。

 また深い息が漏れた。


「お茶を淹れましょうか?」


 温室から持ってきた花を生けてくれていたミラが、穏やかな声を掛けてくれる。

 今日の花のメインとなるのはラナンキュラスだ。侯爵家で育てられているのは白いもので、中心にいくにしたがって薄いピンクに染まっていくのが可愛らしい。

 寄り添うように飾られているかすみ草、デンファレ、レザーファンもラナンキュラスの華やかさを引き立てている。


 侯爵家の温室は様々な季節の花が育てられていて、見ているだけでも楽しい。庭師の許可が得られたら、今度は温室の中でお茶を頂きたいと思っている。


「そうね、お願いしようかしら。甘くしてくれる?」

「かしこまりました」


 花でいっぱいの花瓶をチェストの上に置いたミラは、部屋の隅に用意されているワゴンへと向かう。それをソファーの側に移動させて、お茶を用意し始めた。


 わたしはソファーから立ち上がり、机へと近付いた。いま読んでいた魔導書を置いた後に、学校から頂いた資料を手に取った。

 わたしは入学した子ども達へ初級の魔法と、読み書きを教えていく事になっている。火や水、光や風など生活に必要な魔法を覚えるのは学校では最優先だという。

 しかし学校に通う子ども達全員が魔法適性を持つわけではない。魔法を使えない子ども達にも読み書きや算術、生活していく為に必要な知識を教えていくのも大事な役目だ。


 教壇に立つ機会を与えてくれたルーファスには感謝している。

 お仕事が始まったら、改めて彼にお礼をしなくては。


 そう彼の事を思い浮かべたら──胸の奥が締め付けられた。

 ドキドキするのと似たような、不思議な感覚。


「奥様、ご用意できました。お茶菓子はどうなさいますか? 厨房でケーキの準備も整っているようです」

「ありがとう。でも、今はいいわ。ケーキは夕食のあとに頂こうかしら」

「かしこまりました。今日のケーキは苺のミルフィーユですよ」

「嬉しいわ。ミルフィーユも大好きなの。……侯爵家は苺のスイーツが多いのね? よく苺のタルトも作ってくれるし」


 資料を机に置いて、ソファーへと戻る。

 底の丸いガラスカップには、ふんわりとした優しいタッチでピンクのバラが描かれていた。ソーサーにも同じバラが咲いていて可愛らしい。

 カップからは湯気が立ち上っていて、甘い花香がふんわりと漂っている。カップを手にして一口飲むと、蜂蜜の甘さが優しくてとても美味しかった。


「苺のスイーツが多いのは、旦那様からの指示でございます」

「そうなの?」


 苺を使わなくてはいけない理由があるのかしら。苺が特産品である領地と契約が始まったとか?


 不思議に思っていると、ミラがくすくすと笑みを漏らした。

 黒曜石のような美しい瞳が、楽しそうに煌めいているのが分かる。


「奥様の好きなものが苺だから、との事です。温室でも苺の栽培をするようにと、指示をされたそうですよ。苗を取り寄せたのだとか」


 予想外の言葉に目を瞬く。

 わたしの為に……そんなの、嬉しくないわけがなくて。


 顔に熱が集まっていく。落ち着こうと紅茶を飲んでも、騒がしい鼓動が静まる気配はない。

 最近ずっとわたしを苛んでいる、不思議な感覚にまた包まれる。


「……ルーファスにお礼をしなくちゃ」

「旦那様は、奥様がお喜びになっている姿を見るだけできっと嬉しいのだと思いますよ」

「そうかしら……」


 ああ、もう。

 このままだと認めるしかいけなくなってしまう。


 この胸の痛みも。甘い疼きも。

 彼は……大切な友人なのに。


 わたしが内心で溜息をついていると、ミラが耳元に手を当てた。何度か小さく頷いた後に「了解」と短く返事をしている。


「奥様、先日注文していた本が届いたようです。確認して参りますので、お待ちください」

「ええ、お願いね」


 このお屋敷の使用人は皆、イヤーカフを着けている。それは風魔法を応用した魔導具で、屋敷内でやり取りをするのにとても便利らしい。


 お手本のように美しい一礼をして、ミラは部屋を後にした。


 一人残されたわたしは、紅茶のカップを両手で包んで膝に置いた。お行儀が悪いけれどわたしだけしかいないのだから、いいだろう。

 ソファーの背に深く体を預けると溜息が漏れた。


「……好きになってはいけない人なのにね」


 ぽつりと零した呟きは、恋慕の色に染まっていた。それを自覚して、苦笑いが漏れてしまう。


 わたしに求められているのは、『侯爵夫人』という立場だけだ。

 仲睦まじく過ごすわたし達の間に、入り込む事なんて出来ないと……そう見せつける為の肩書だけの妻。


 これでは契約違反だ。

 彼に惹かれて、恋をしてしまうなんて。


 恋を自覚してもこの恋が叶わないのは分かっている。恋をして、すぐに失恋なんて、契約違反したわたしにはお似合いの罰なのかもしれない。


『俺を想う誰かと結婚をしたとして、俺がその気持ちを返せるとは思わない。結婚相手も辛い思いをするだけだろう』


 この契約結婚を持ちかけられた時、ルーファスが口にしていた言葉が頭をよぎる。

 その通りだ。愛されないと分かっていて、この想いを胸に秘めていくのは辛い。でも、それでも……彼の傍に居たいと願ってしまうのだから、もうとっくに拗らせてしまっているのかもしれない。


 この気持ちは封印しよう。

 いつかは風化して、消えてくれるだろう。


 冷めてしまった紅茶を一気に飲み干すと、先程よりも甘く感じた。

 それなのに胸には苦い感情が広がっていくばかり。


 カップをテーブル上のソーサーに戻して、わたしはソファーに横たわった。

 ミラが部屋に戻る時に置き上がればいい。今は少し、疲れてしまった。


 彼は充分過ぎる程に、わたしに良くしてくれている。これ以上を望むなんてしてはいけない。

 わたしが彼に出来る事は、侯爵夫人という立場に恥じない振る舞いで、彼の隣に立ち続ける事。そこにこの恋慕を滲ませる事はしてはいけない。

 わたしが彼に恋していると知られたら、この関係はすぐにでも終わりを迎えてしまう。ルーファスとの友人関係だって終わってしまうだろう。


 だから、今のまま。友人としての距離で側にいよう。そして……いつか彼に、本当に愛する人が出来た時には離縁しよう。

 彼に責が及ばないような形で、彼の前を去ろう。


 いつの日か訪れるだろう未来を思って、ちょっと視界が滲んでいる。

 窓から見た空は夕焼け色。浮かぶ雲が金色に染まって綺麗なのに、あんまりにも眩し過ぎるから、吹雪いてしまえばいいのになんて思ってしまった。

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