18.初出勤
わたしが恋を自覚しても、生活に変わりはない。変えてはいけない。
いつも通りの生活なのに……少し、苦しい。心配させてしまうから、誰に零す事も出来ないけれど。
そんな数日を過ごしたあと、念願の日がやってきた。
揺れの少ない馬車の中で、私は手鏡で髪型や化粧を確認していた。向かいに座るミラはそんなわたしを見て微笑んでいる。
「ミラ、おかしいところはない?」
「大丈夫です。今日もお美しいですよ」
ミラが支度をしてくれたのだから身嗜みが整っているのは間違いないと分かっているのだけど……それでもそわそわしてしまう。
「奥様、落ち着いて下さいまし」
「緊張してしまって……。受け入れて貰えなかったらどうしましょう。そっぽを向かれて授業にならなかったら……」
「大丈夫ですよ。私も奥様の補佐で控えておりますから、ご安心を」
ミラはわたしが学校で働く間、わたしの手伝いをする為に共に来てくれる事になっている。
授業準備など、慣れないわたしだけでは大変だろうとルーファスが学校長へ相談してくれたそうだ。甘やかされている気もするけれど、正直とても有難い。
膝の上に置いた手鏡を持ち直し、また自分の姿を確認する。
髪は邪魔にならないよう、一つにまとめて低い位置でシニヨンにして貰っている。髪を飾る赤いリボンはミラがレースを編んで作ってくれたものだ。
化粧は控えめにして、装飾の少ない紺色のデイドレスを選んだ。立てた襟に飾られている白いフリルが可愛らしくて、わたしのお気に入りのものだ。
馬車が減速しているのに気付いたわたしは、窓から外を覗いた。塀に囲まれた学校の敷地内に入ったようだ。
また緊張が戻ってきて、深呼吸を繰り返すわたしを見たミラがくすくすと笑みを漏らした。
*****
「今日から皆さんの先生になりました、サフィア・ベルネージュです。どうぞ宜しくお願いします」
「よろしくおねがいします!」
元気な声で挨拶が返ってきて、なんだか嬉しくなってしまう。
教室内には長い机が五つ並んでいる。一つの机には四人が向かっていて、座る椅子はまだ大きいのか床に足がついていないのが見えた。このクラスは全部で二十人。今日の欠席はいないようだ。
皆、キラキラとした瞳でわたしの事を見つめている。わたしへの興味が隠せていないその様子に笑みが浮かんだ。
「まずは皆さんのことを教えて下さい。名前と、好きなもの、趣味など、いま配っている紙に何でも書いてみて下さいね」
「はーい!」
ミラが子ども達の間を回って、紙を配ってくれている。
このクラスはもう基本的な読み書きが出来るようになっていると、引継ぎの資料には書いてあった。
紙を受け取った子から、ペンを走らせていくのが見える。わたしも子ども達の間を回りながら、最初の授業を進めていった。
同僚となる先生方には貴族も平民もいる。
皆親切で、好意的に受け入れてくれたと思う。分からない事があった時に聞いてみても、丁寧に教えてくれて有難い。
その日の授業日誌を纏めて学校長へ提出し、夕方になって退勤の時間になった。
充足感と多少の疲労を感じながら、ミラと共に迎えの馬車を待っていた。
「ミラが一緒に来てくれて助かったわ。ありがとう」
「お役に立てて良かったです」
「子どもの扱いに慣れているようだったけれど、兄弟がいるのよね?」
「はい、弟が三人と妹が一人おります。年が離れていますので、よく面倒を見ていました」
ミラはマリヒワ子爵家の出身だ。学院を優秀な成績で卒業した後は、すぐにベルネージュ侯爵家で働くようになったと聞いている。
わたしよりも二つ上だからなのか、ミラがお姉さん気質だからなのか。今ではわたしも彼女を姉のように思っていた。
そんなお喋りをしていると、馬車がやってきたのが見えた。
ベルネージュ侯爵家の家紋が臙脂色の車体に彫られている。馭者席にはユリウスが座っていたものだから驚きに目を瞠った。
「奥様、お疲れ様でございました」
「ユリウスが来てくれたの?」
学校に来る時に乗っていた馬車は、厩舎係の使用人が馭者を務めてくれていた。だから帰りも同じ使用人が来るのだと思っていたのだけど……。
不思議に思っていると馬車のドアが開いた。
中から降りてきたのはルーファスで、まさか彼が乗っているとは思っていなくて「ええ!?」と大きな声を出してしまった。
「お疲れ、サフィア」
「お疲れ様……どうしたの?」
「迎えに来たんだ」
「お仕事は?」
「終わらせてきたから大丈夫。さぁ、帰ろう」
ルーファスがわたしに手を差し出してくれて、馬車に乗る手伝いをしてくれる。ミラは既に馭者席の隣に座っていて、馬車の中に入るつもりはないようだった。
わたしの後に乗り込んだルーファスがドアを閉める。それを合図としたように、ゆっくりと馬車が動き出した。
「迎えに来てくれると思わなかったからびっくりしちゃった」
「これからも時間が合う時は迎えに来るつもりなんだが」
「有難いけれど、ルーファスだって忙しいでしょう。馬車の手配をしてくれるだけで充分よ」
「俺がそうしたいんだ」
わたしの隣に座るルーファスは、優しい声でそんな事を口にする。わたしの手に自分の手を重ねて、手の甲を指で撫でてくれた。
その指先がわたしの薬指に咲くマーガレットとラベンダーをなぞっていく。
二人きりだから、そんな風に……仲睦まじい夫婦のふりをする事ないのに。
触れられると心が弾んでしまう。胸がぎゅっと締め付けられる。
彼に目を向けると、赤い瞳がわたしの事を見つめていた。優しい眼差しに胸の奥まで貫かれてしまいそう。
「ねぇルーファス、わたし達の仲が円満だって、周囲の人達には充分アピール出来たと思わない?」
「そうか?」
「ええ。先日の夜会でもきっとそうだったと思うの。だってあなたがわたしに笑いかける度に、周囲がざわめく程だったんだから」
「珍しかったのは間違いないだろうな」
「わたしも夫婦としての距離に大分慣れたと思うのね。だから……慣れる為に距離を詰めなくてもいいんじゃないかしら」
彼への想いを自覚しているこの状態で、距離が近付いたらドキドキして落ち着かない。いつか彼に知られてしまいそうで、それも恐ろしいもの。
友人の距離に戻れば、きっとこんな風に挙動不審になる事はない。人前では上手にふるまう事が出来るから問題ないだろう。
そう思って提案したのに、彼は首を横に振るばかりだ。
「別に慣れて欲しいと思って、君の傍に居るわけでないぞ」
「え? だってそう言っていたじゃない」
「最初はな。今は違う」
「……違うの?」
「俺がしたいようにしているだけだ」
ああ、もう。期待してしまうから、やめて欲しい。
期待して、それが違った時には立ち直る事なんて出来ないだろう。
勘違いだと、思い上がりだと、そう突き放されたらどうしていいのか分からない。
だから……彼の真意を問う事なんて出来そうにない。
何も言えずにいるわたしを見て、ルーファスが低く笑った。
蕩けるように甘い笑みに、また鼓動が跳ねた。
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