19.まるで嵐のような
学校で教壇に立つようになってから二週間が経った。
わたしは毎日通うわけではなくて、週に三~四日ほど。自分の受け持つ授業がない日はお休みになっている。
子ども達は素直で、向上心に溢れている。
自分達がどれだけの力をつけられるかで、これからの未来が変わる事を理解しているのだ。学びを求める子どもに教えていくのは楽しい。
問題がないわけではないけれど、些事ばかりだ。今のところは話を聞いて解決できるような事だけど、これからも注意深く目を向けなければならないとは思っている。
彼らはわたしを慕ってくれているけれど、見定めようとしているのも感じている。
子ども達に信頼されるだけの人たり得るよう、わたしも努力を重ねていかなければならない。
今日はお休み。
サロンのソファーに座ったわたしは、刺繍に勤しんでいた。刺繍は得意なわけではないけれど、淑女の嗜みとしての程度には出来る方だと思う。
わたしが座るソファーの向かい、テーブルを挟んだ先のソファーにはミラが座っていて、彼女もわたしと同じように刺繍針を動かしていた。
わたし達が作っているのは、応接室の暖炉上に飾るタペストリーだ。
そんなに大きなものではなく、ちょっとした飾りになるくらいのもので、わたしとミラがそれぞれ二枚を刺繍して、四枚を縫い合わせて完成となる。
わたしが刺繍をしているのはベルネージュ侯爵家の紋章である狼の横顔だ。難しい図案だから、針の進みも遅い。手早くやって間違うよりは、ゆっくりでもいいから一針ずつ確実に……というのは、ちょっと言い訳染みているかもしれないけれど。
ミラは二本の魔法杖を刺繍している。杖に飾られる宝玉の色は赤と青。ルーファスとわたしの瞳の色だ。
有能な彼女は刺繍も得意らしく、すいすいと針を進ませていく。流れるようなその動きは思わず見惚れてしまうくらいに美しかった。
「ミラは刺繍も上手ね」
「昔はそれほど得意でもなかったのですが、回数を重ねるうちに慣れてきたように思います」
「そうなの? 最初から上手に出来ていたのかと思ったわ」
「いちばん初めに刺繍したのは父に贈るハンカチでしたが、芋虫がのたうちまわっているような仕上がりでした。父はそんなものでも喜んでくれましたが、一瞬何とも言えない苦い顔をしていたのを忘れられません」
「ふふ、お父様はミラからの贈り物が嬉しかったのね」
「きっとそうだと思います。たとえそれが、芋虫ハンカチでも」
おどけるようなミラの言い方に、思わず笑ってしまった。
笑ったけれど、最初の刺繍でハンカチを破いたわたしも相当だったと思う。
でもミラのように沢山刺繍をするようになれば、わたしも上手になれるかもしれない。もちろんセンスだったり、器用さだったり、足りないものはあるだろうけれど……それでも、やらないで諦めるより上手になるのは間違いないだろう。
手首に着けたピンクッションに針を刺し、作業前にミラが準備をしてくれた紅茶のカップを手に取った。持ち手も冷たくて、紅茶が冷えてしまっている事が分かる。
それをぐいっと飲み干したら、少し苦味が強かった。でも逆に集中出来るかもしれない。
よし、もうひと頑張り。
そう思って深く息をついた時だった。
ノックをしてサロンに入室してきたのはユリウスだ。
いつものように背筋を伸ばした美しい立ち姿だけれど、その眉が困ったように下げられている。
「奥様、少々宜しいでしょうか」
「どうしたの?」
「旦那様の従妹にあたりますアイリス様がいらっしゃっております。奥様にお会いしたいと仰っているのですが……。お約束をしていないという事で、お引き取りを願う事も出来ますがどうなさいますか?」
「ルーファスの従妹なんでしょう? 会うわ」
刺繍も今日はここまでだ。急ぐわけでもないし、また次のお休みでもいいだろう。
そう思って道具を入れている籐籠に、刺繍枠などを片付けて立ち上がる。ずっと座っていたから少し体が強張っているようだ。
「奥様、アイリス様は……不敬を承知で申し上げますが、少々思い込みの強い方なのです。もしかしたら奥様が不快になるような事を口にされるかもしれません」
難しい顔でユリウスがそんな事を口にするものだから、わたしは目を瞬いてしまった。
ちょっと尻込みしてしまいそうになるけれど、でも親戚になったのだから門前払いをするわけにもいかない。、
「教えてくれてありがとう。応接室にご案内してくれる?」
「かしこまりました」
ユリウスは尚も心配そうに眉を下げつつ、一礼をしてサロンから去っていく。
扉の閉めるユリウスはいつもと同じ洗練された動作をしていたのに、なんだかやけにその音が大きく聞こえたのは緊張しているからかもしれない。
刺繍道具を全て片付け終えたミラが、わたしの側に来て髪型とお化粧を直してくれている。彼女が腰に着けている小さなポーチには、櫛や化粧品などわたしの身嗜みを整える為の道具が多く入っているらしい。
「奥様、壁に控えておりますので、どうぞ私もお供させて下さいませ」
「もちろん。あなたが一緒に来てくれるなら心強いわ」
「ユリウスさんも同席なさると思うのですが……」
ミラの表情は暗い。わたしを心配しているというのが強く伝わってくる。
ユリウスとミラにそんな表情をさせるアイリス様は……一体どんな人なんだろうと、少し恐ろしくなってしまった。
「アイリス様はお義父様の方の親戚筋かしら?」
ルーファスのお母様は砂の国の出身だ。
そちらにも親戚はいるだろうけれど、距離があるのだから気軽には来る事が出来ないだろう。お義母様の親戚がいらっしゃるなら、きっとルーファスから何か教えて貰えるはずだ。
だからきっと、この国にいらっしゃる親戚なのではないだろうかと思った。
「はい。アイリス様のご母堂は大旦那様の妹君様であられます。デンドラム子爵家のご令嬢です」
身嗜みも整ったので、ミラに説明をしてもらいながらサロンを出た。
応接室まで歩きながら、どんな対応をするのが一番良いのか考える。
お互いの両親にさえ契約結婚だという事を伝えていないのだ。親戚とはいえ、アイリス様にも伝えない方がいいだろう。
気になるのは、アイリス様に対するユリウス達の評価なのだけど……。
まぁ、会ってみないと分からない。
応接室の前で待っていてくれたユリウスが「中でお待ちです」と教えてくれる。
彼も一緒に来てくれるようで有難い。
ユリウスの開いてくれる扉から応接室に入ると、ソファーで寛ぐ一人の令嬢と目が合った。
ピンク色のふわふわとした髪をハーフアップにして、大きな赤いリボンを飾っている。透き通るような肌に、ふっくらした唇が印象的な美しい人だった。わたしよりも幾つか年下だろうか。
髪よりも色の濃いピンク色の瞳は長い睫毛に縁どられているけれど……隠し切れないわたしへの敵意に塗れていた。
何だかもうこの時点で疲れてしまったのだけど、それを隠してにっこりと笑って見せた。
「はじめまして。わたくしはサフィア・ベルネージュと──」
「ベルネージュを名乗らないで!」
自己紹介を遮られたのは初めてだ。
立ち上がったアイリス様は、わたしを睨みつけながらまた叫んだ。
「傷物のくせにルーファス兄様と結婚するなんて、恥知らずだわ!」
ああ、絶対に仲良くなれない。
お客様の前だけど、溜息が漏れてしまったのも仕方がない事だと思う。
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