16.謝罪と、幸せと
ヴィント殿下が笑みを浮かべながらこちらに近付いてくる。
わたし達は膝を折って臣下の礼を取った。わたしの隣でルーファスが溜息をつくのが聞こえてしまって、不敬なのではないかと緊張で体が冷えていく。
まさかヴィント殿下が降りてきているとは思わなかった。
夜会で多少の騒動があるのはお約束のようなものだけど……特別大きな事件ではない限り、王族の方々のお耳に入れないようにするのが暗黙の了解でもあった。
「楽にしていいよ。ルーファス、君は随分幸せそうに笑うんだね」
お言葉を頂戴して、姿勢を直したわたし達……というより、ルーファスに向かってヴィント殿下がお声を掛ける。その声は楽しそうに弾んでいるようだった。
「最愛の人を妻に迎える事が出来ましたもので」
「はは、君のそんな表情を見られるとは思わなかったな。仏頂面の朴念仁だと思っていたけれど、そんな事もなかったのか」
「誰が朴念仁ですか」
揶揄うようなヴィント殿下の声にルーファスは肩を竦めている。
殿下が笑うと、高い場所で一つに結んだ水色の髪が揺れて肩にかかる。先程までの重い空気が少しずつ消えていく──そう思ったのに。
ヴィント殿下が、視線を向けたのは先程のラーリフ伯爵令嬢だった。
笑っているのに、緑色の瞳からは穏やかさが消えている。その視線を向けられているのはわたしではないのに、ぞくりと肌が粟立った。
「さっきの言葉なんだけど、君は……僕が祝福をした結婚に異を唱えるのかな?」
「いえ、そんな……」
ラーリフ伯爵令嬢の顔色がどんどん悪くなっていく。声が震えて、閉じた扇をきつく握り締めているからその指先は真っ白になっていた。
「それなら君は何をするべきだろうね。こういった場で囀るのを控えるようにとは言わないけれど、自分の首を絞めるような事は考えた方がいいだろうね」
「は、はい」
ラーリフ伯爵令嬢はわたしの近くへと歩んでくる。友人らしき令嬢達はラーリフ伯爵令嬢から距離を取るように後退っている。無関係ではないだろうから、その令嬢達の顔を覚えておこうと思った。
ヘレンが何か小さく呟いているのが聞こえるけれど、どうやら彼女達の家名みたいだ。あとで教えて貰おう。
ルーファスの腕がわたしの腰を引き寄せる。
ちらりと彼を窺うと、眉間に皺を寄せて随分と険しい顔をしていた。
「ベルネージュ侯爵夫人、大変失礼な発言をしてしまいました。申し訳ございません」
深く頭を下げるラーリフ伯爵令嬢を、責める気にはなれなかった。
仲良くなるつもりもないのだけど、でも……彼女はただ運が悪かっただけだと思うから。
この大広間にいる人達の誰が、ラーリフ伯爵令嬢になっていてもおかしくなかったのだ。
それに、わたしは嫉妬や敵意を向けられるつもりでこの場に来たのだ。もっと激しい刃のような悪態を向けられるかと思っていたから、これくらいはどうという事もない。
「謝罪を受け入れます。ですが訂正をさせて下さいませ。相手方の有責で、婚約を破棄したのはわたくしの方からですのよ」
「はい……」
ラーリフ伯爵令嬢は震える声で頷いた。
この話は早く終わらせてしまいたい。そう思いながらルーファスに自分からも身を寄せる。腰に回る彼の腕に力が籠もったのが分かった。
「わたくし、今はとっても幸せですの」
ルーファスを見れば、甘い眼差しでわたしの事を見つめている。浮かぶ笑みも蕩けるようで、わたしの事が特別だと伝えてくれているようだった。
胸の奥が甘く疼く。
演技だと分かっていても、その微笑みに──恋に落ちてしまいそうになる。
「良かったね、ルーファス。君が結婚すると言った時には天変地異でも起こるんじゃないかとおもったけれど」
雰囲気を変えるように、ヴィント殿下が明るい声で言葉を紡いだ。
ラーリフ伯爵令嬢はまた深く礼をして、そっとこの場から離れていく。それを留めようとする人は誰もいなかった。
視界の端には心配そうなホルシュ伯爵の姿が映る。それに気付いたらしいヘレンが、一礼をしてからホルシュ伯爵の元へ戻っていく。わたしには悪戯っぽく片目を閉じて見せながら。
「彼女だから結婚したいと思ったのです」
「うわ、軽い調子で惚気てくる。夫人の事は僕もサフィアと呼んで構わない?」
畏れ多いと思いながらも、はいと返事をしようとしたわたしの声を遮ったのはルーファスだった。
「だめです」
「独占欲が強い。じゃあサフィアさんなら?」
「サフィアに呼びかける必要がないでしょう。俺を通して下さればいいだけの話です」
「いやー、サフィアさんも苦労するね。こんな独占欲の塊でいいの?」
「サフィアの名前を呼ばないでください」
「いいでしょ、別に。ねぇ?」
遠慮のないやりとりに眩暈を起こしてしまいそう。
ルーファスがしっかりと抱き寄せてくれているから、何とか倒れないで済んでいるだけで。貼り付けた笑みが剥がれてしまいそう。
「名前を憶えて頂けて光栄です。どうぞ殿下のお心のままに呼んで頂ければと存じます」
「あはは、そんなに堅苦しくならないで欲しいな。友人の奥方なんだ、出来れば仲良くしてほしい」
「俺はあなたの部下で友人ではないのですが」
「辛辣だねぇ」
はらはらしてしまいそうな程の応酬だけど、これがきっといつもの様子なのだろう。
「そうそう、君達の所に来たのは大事な用があったんだ。これ、結婚祝い」
「ヴィント様からは既に頂戴しておりますが……」
「それは君の上司としてのお祝いだろ? これは君の友人である僕からのお祝いさ」
そう言いながらヴィント殿下が差し出してきたのは、二枚のチケットだった。
受け取ったルーファスがわたしにも見せてくれる。……歌劇のチケット?
「今月末からの舞台なんだ。いい席を用意したから二人でデートしたらいいよ」
「ありがとうございます。これは……新しい舞台ですね」
「そう。今回のも自信作だから、楽しみにしてくれていいよ」
ヴィント殿下は第三王子として公務をこなしながらも、劇作家として活動をしているのは有名な話だ。人気でなかなかチケットが取れないと、うちの母はいつも嘆いていたもの。
「じゃ、またね」
片手をひらりと振って、ヴィント殿下は背を向けた。そのまま王族の座する壇上へと歩んでいく。
頭を下げてそれを見送ってから、改めてルーファスの持っているチケットへと目を向けた。
「うちの母も、ベルネージュのお義母様も羨ましがってしまいそうね」
「内緒にしておこう。譲ってくれと懇願される未来しか見えない」
肩を竦めるルーファスの様子に、くすくすと笑みを漏らしてしまった。
そんなわたしを、彼が優しく見つめている。ああ、また胸の奥がぎゅっと痛い。それを押し隠して、わたしは微笑んで見せた。
彼が何かを口にしようとした時──音楽が一際大きくなった。
新しく奏でられ始めたのはワルツだ。ダンスの時間が始まったらしい。
「俺と踊って下さいますか」
「喜んで」
腰を抱くのとは逆手が差し出される。それに自分の手を重ねると、ゆったりとした足取りで広間の中央へと誘われる。
既に踊り始めている人々の中に混ざりながら、わたしはただルーファスだけを見つめていた。
彼も、わたしだけを見つめてくれていたから。
心が浮き立つ。
胸が切なくて、鼓動が早まって、今にもその瞳の中に溺れてしまいそう。
ずっとこうしていられたらいいのに。そう思ってしまうくらいに、彼とのダンスは楽しかった。
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