13.青いドレス
ヘレンがベルネージュ侯爵家を訪れたのは、年が明けてすぐのことだった。
経営しているメゾンだってまだ新年のお休み中だろうに、ドレスを依頼したいと手紙を送ったらすぐにデザイン画を持ってきてくれたのだ。
「いらっしゃい。お休みなのにごめんなさいね」
「気にしないで。いつもは領地に戻るんだけど、今年は夫の仕事の都合で王都に残っていたの。だからちょうど良かったわ」
応接室に案内すると、早速とばかりにテーブルにデザイン画を並べてくれる。
青、赤、紫、黄……様々な色の華やかなドレスが描かれていて、それを見ているだけで心が弾んだ。
「奥様、お茶はこちらにご用意して宜しいでしょうか」
「ええ、ありがとう」
テーブルを挟んで向か合って座る、わたし達のソファーそれぞれの隣にサイドテーブルが用意される。
ミラがそこに紅茶とチョコレートを用意してくれた。わたしのサイドテーブルには魔導具のベルも置き、ミラは美しい一礼をして応接室を後にした。通常の来客なら安全面からもミラに側にいて貰うのだけど、今回はヘレンだから二人で大丈夫だと事前に言ってあったのだ。
「あなたに似合うドレスをいくつか描いていたの。青いドレスならこれなんてどうかしら。もちろん好みに合わせて最初から描く事も出来るし、遠慮なく言ってね」
そう言いながらヘレンがわたしの前に差し出してくれたのは、胸元から裾にかけて色が薄くなっていくグラデ―ションの美しいドレスだった。
肩は露わになっていて、腰から下のスカートはふんわりと広がっていて、透ける程の薄布にが重ねられていた。薄布には銀糸で花の刺繍がされている。
「とても素敵だわ。この重ねられているスカートが特に綺麗。このドレスをお願いしようかしら」
「気に入って貰えたなら良かったわ。このドレスは一番のおすすめだったから。新年祝いの夜会用でしょう? 間に合わせるから安心してね」
「大丈夫? あと二週間しかないけれど……」
「実はこのドレスを選んでくれるんじゃないかと思って、仮縫いまで終わらせてあるの。着せ付けで直すから、都合のいい時にメゾンに来てくれたらすぐに完成させられるわ」
「ありがとう。結婚式の時といい、ヘレンにはお世話になってばかりね」
広げていたデザイン画を集めて、トントンと紙の端をテーブルで揃えながらヘレンはにっこりと笑った。
眼鏡の奥でヘーゼルの瞳がキラキラと楽しそうに輝いている。
「いいのよ。あなたのドレスを作るのは私の楽しみでもあるんだから」
大きなバッグにデザイン画をしまったヘレンは、サイドテーブルに用意された紅茶に角砂糖を二つ落とした。銀のスプーンでゆっくりと掻き混ぜてから、カップを口に運ぶ。
「それで……結婚生活はどう?」
紅茶を一口飲んでから、カップを持ったままでヘレンがぐっと身を乗り出してくる。
わたしもカップを口に寄せていたのだけど、ヘレンの勢いにその手が途中で止まってしまった。花のような紅茶の香りだけが立ち上っていく。
「順調、だと思うわ。ルーファスがとってもよくしてくれるから」
「ルーファスがあなたを大事にするのは間違いないでしょうね」
「釣書も届いていないそうだから、役に立てているみたい。正直なところ、結婚したって釣書が送られてくると思っていたんだけど……」
「そんな意味のない事をしたって仕方がないって分かっているのよ」
くすくすとヘレンが笑うけれど、わたしは首を傾げてしまった。紅茶を一口飲んでからカップをテーブルへと戻す。持ち手に休む蝶の細工が可愛くて指でなぞった。
「ヴィント殿下が祝福して下さった結婚に異を唱えても意味がないって事ね?」
「それもあるかもしれないけれど。結婚しないとはっきり言い続けていたルーファスが結婚したのよ。あなたが
「それはあなた達が、そういう噂を流してくれたからでしょう」
わたしを守る為に、結婚までの間に流れていた噂を思い出す。それだけで諦めてくれる人達だけではないのだろうから、やっぱり今度の夜会では刺されないように気を付けないといけないかもしれない。
「まぁ……あなたはそう思っていていいわ。結婚生活で困っている事はないの? 不自由はないだろうけれど、ルーファスの愛が重かったりするんじゃない?」
「あ、愛?」
一体何を言い出すのだろう。
摘んだばかりのチョコレートが指先から滑り落ちた。
愛ではないけれど、困っていることは……正直、ないとは言えない。
どうしようかと迷ったのも一瞬で、わたしは口を開いていた。チョコレートは一旦置いておく事にして。
「……ルーファスは凄く優しくしてくれるわ。わたしの事を大事にしてくれてる。でも……なんだか、すごく甘やかされているというか、距離が近いというか……。わたしにそういう免疫がないからだとは分かっているんだけどね、その……なんだかドキドキしてしまって」
「いいじゃない。契約結婚だからといって、好きになってはいけないって契約があるわけではないんでしょう?」
「す、好き!?」
予想外の言葉に思わず大きな声を出してしまった。
ヘレンは気にした素振りもなく、チョコレートを口に運んでいる。
恋を知らないわけじゃない。
一方的に終わりを告げられたとはいえ、わたしは婚約者だったロータルの事が好きだったから。
今はもう、彼に気持ちが残っていないと言い切れるけれど。でも……あれは確かに恋だった。
「恋をしたっていいのよ」
「ドキドキするから恋心だってわけじゃないわ。だってあの美貌だし、ルーファスが素敵な人だっていうのはヘレンも分かっているでしょう? そんな人と距離が近かったら、ドキドキしてしまうのも当然だと思うの」
「そうね。でもルーファスはどうして距離を縮めて──」
──コンコンコン
ヘレンの言葉はノックの音で最後まで聞き取る事が出来なかった。
どうぞ、と声を掛けると入ってきたのはルーファスだった。後ろにはミラも控えている。
「やぁ、ヘレン。元気そうだな」
「おかげさまで。あなたは随分幸せそうね」
「ああ。世界で一番幸せだと言っても間違いないくらいにな」
「本当にそうだと思うわ。サフィアのドレスが気になったんでしょう?」
ルーファスがわたしの隣に腰を下ろすと、先程とは異なり片付けられたテーブルにミラがルーファスの紅茶を用意する。わたし達にも新しい紅茶を用意してから、ミラは足音も立てずに応接室を後にする。
「選んだドレスは気になるさ。どんな衣装もサフィアに似合うと分かっているが」
当然とばかりに紡がれる言葉に、ルーファスの横顔を見つめてしまう。わたしの視線に気付いたのかルーファスがこちらに目を向けて、優しく微笑むものだから鼓動が跳ねてしまった。
さっきヘレンがおかしなことを言ったせいだわ。
ヘレンはバッグから一枚のデザイン画を取り出して、ルーファスに差し出している。それを受け取ったルーファスは幾度か小さく頷くも、少し眉を寄せているようだ。
「サフィアによく似合うだろう。この青色も綺麗だが……ちょっと露出が多くないか? ストールを追加できないだろうか」
「はいはい。このオーバースカートと同じ布地でストールを作るわ。サフィアもそれでいい?」
「ええ」
薄布に銀花が描かれたストールは、きっと素敵なものになるだろう。異論もなく頷くと、ルーファスがほっとしたのが分かった。
「アクセサリーは俺に任せてくれるか? 君によく似合うものを贈らせてほしい」
「ありがとう。楽しみにしているわ」
ルーファスならこのドレスに合うアクセサリーを選んでくれるだろう。彼のセンスに間違いはないもの。
微笑む彼の眼差しが蕩けるようで、また鼓動が早くなる。
ああもう、ヘレンが変な事を言うからだ。意識したいわけじゃないのに、勘違いしたいわけでもないのに、なんだか落ち着かない。
「……砂糖吐きそう」
ぽつりとヘレンが何かを呟いた気がするけれど、心臓が騒がしくてよく聞こえなかった。
でもその声は、浮かぶ笑みと同じくらいに優しかった。
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