14.笑顔の理由
夕間暮れの空に、満ちた月が昇っている。薄くかかった雲の間をまるで船のように進む月を窓から見ていると、頭に両手を添えられて真っ直ぐ前を向かされてしまった。
「奥様、お願いですから鏡を見ていて下さいませ」
ミラにこうして顔の向きを直されるのも三度目だ。
ごめんなさいと口にしながら鏡を見ると、左側の髪が編みこまれて右側に集められ、肩から胸元に垂らすような髪型が出来上がっているところだった。一粒真珠の髪飾りが、垂らされた髪に散らされているのもとても綺麗。
「素敵だわ。お化粧も……これなら夜会でも堂々としていられそうよ」
夜会の盛装という事もあって、いつもよりも強めのお化粧をして貰っている。濃い色が使われているけれど、けばけばしいわけではない。
自分でも綺麗だと思えるくらいの仕上がりに笑みが漏れる。
自信が持てないと、背を丸めてしまうもの。今日はそういうわけにはいかないのだ。
ルーファスに心を寄せていた人達から悪意を向けられるかもしれない。わたしはそれを跳ねのけなければならないのだ。ルーファスの妻として。
「奥様のお仕度をさせて頂く事が、私としても楽しいのです」
「そう言ってくれて嬉しいわ。あなたはいつもわたしに似合う化粧や髪をしてくれるものね」
立ち上がると、肘までの白い長手袋をミラが直してくれた。手首にはガーネットとダイヤモンドで作られたブレスレットが飾られている。
ネックレスもイヤリングも同じ意匠で揃えられていて華やかだ。
ドレスと同じ生地で作られた扇を持ち、肩にコートを羽織らせてもらう。腕には薄布に銀花が刺繍されたストールを掛けた。ドレスのオーバースカートと同じ生地だ。
最後に姿見で全身を確認したけれど、問題ないだろう。ルーファスの美貌の隣では霞んでしまうかもしれないけれど、隣に立って恥ずかしくない程にミラは美しく仕上げてくれた。
うん、大丈夫。
そう頷いたわたしは、ミラと共にエントランスホールへと向かう事にした。
ホールでは、すでにルーファスがユリウスと共に待っていた。
談笑しているのかその表情は穏やかで、楽しそうだ。
「ルーファス、お待たせ」
声を掛けるとルーファスがこちらへ顔を向ける。その瞬間──浮かんでいた笑みは消えて、驚いたように目を瞠った。
何かおかしなところはあっただろうか。
ミラの支度は今日も完璧だし、自分でも満足しているけれど……彼の好みではなかった?
緊張してしまって、開いた唇から漏れた息は震えている。
失望されていたらどうしよう。彼の妻として相応しくないと、そう思われていたら……。
そんな考えが頭の中を駆け巡る。
それを搔き消してくれたのは、嬉しそうな彼の笑顔だった。
「綺麗だ。いつもの君は可愛らしいが、今日の装いはまるで女神のように美しいな」
「……それはさすがに言い過ぎだけど、ありがとう。嬉しいわ」
きっとお世辞じゃない。
そう伝わる程に、彼の眼差しも声も甘い。先程までと違う胸のざわめきに、顔が熱くなるのが分かった。
お礼を言いながら、改めて彼へと目を向ける。
彼のジャケットとスラックスの色は落ち着いたシルバーで、ベストがわたしのドレスと同じ青色だ。スカーフは白布に銀花が刺繍されていて、わたしのオーバースカートと同じ意匠だというのは一目で分かる。
長めの銀髪は緩く後ろに撫でつけられて、綺麗な額が露わになっていた。だからいつもより赤い瞳がはっきりと見えて、何だかドキドキとしてしまう。
「あなたもとても素敵だわ。見惚れてしまうくらいに」
「そう言ってくれるなら、しっかり支度をした甲斐もあるな。いつもはここまでちゃんとしないんだ」
「そうなの?」
「君をエスコート出来るんだから気合も入るさ」
何と言っていいかわからずに、ただ微笑んで誤魔化す以外に出来なかった。
だって今にも、心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思うくらいにドキドキしていたんだもの。
『恋をしたっていいのよ』
不意にヘレンの言葉が蘇る。
ああもう、こんな時に思い出さなくてもいいのに。
「サフィア? 顔が赤いが……」
「大丈夫よ。少し緊張しているのかも」
「久し振りの夜会だからな、緊張するのも当然だろう。俺がついているから心配しなくていい」
「ええ、頼りにしているわ」
緊張しているのも本当だけど、ルーファスと一緒ならきっと大丈夫。
魔導具の持ち込みは出来なかったけれど、直接的な危害が加えられる事もないだろう。
「では行こうか」
ルーファスの声に頷いて、彼の腕に手を掛ける。
見送ってくれるユリウスとミラに笑顔を向けて、わたしは外に用意されていた馬車へと乗り込んだ。乗り込むのに手を貸してくれるルーファスが、ずっと嬉しそうに微笑んでいる事には気付かない振りをして。
*****
王宮の大広間は沢山の人で賑わっていた。
楽団が明るい音楽を奏でていて、心が浮足立つような高揚感に包まれる。久し振りの雰囲気に圧倒されるのかと思っていたら、意外とそんな事もなかった。
隣を見れば、ルーファスが居てくれる。それだけで安心するのだから、わたしは随分と彼を頼りにしているらしい。
コートは馬車に置いてきたから、ストールを羽織る。大広間は暖房が効いているから寒さを感じる事もなかった。
ストールの背中部分をルーファスが直してくれる。ありがとうと口にしたら、にっこりと彼が笑った。
周囲の女性陣がざわめいたのが分かった。
その理由も分かる。ルーファスの笑顔を見た人は、この中にはほとんどいないのだろう。学院時代から彼はこういった場所で笑みを浮かべる事はしなかった。
そんな彼が、微笑みかけてくれる理由。
わたしが大切にされていると、仲睦まじくやっていると周囲にアピールするためだ。わたしはちゃんと分かっている。
だからわたしも、笑いかけられるのが当然だとばかりに微笑んだ。
わたし達は想い合う、仲の良い夫婦だと偽る為に。
そう、偽りだ。
分かっているのに……胸の奥がぎゅっと締め付けられるのはどうしてだろう。
『恋をしたっていいのよ』
ヘレンの声が、まだ消えない。
胸の苦しさを吐き出すように深呼吸をすると、ルーファスの手がわたしの腰に回った。
「大丈夫か?」
「ええ。あなたが居てくれるから、大丈夫」
わたしの言葉に目を瞬いたルーファスが笑う。その優しい眼差しがわたしだけに注がれている事に、何故だかひどく安心した。
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