30.夜会で、予想外の
馬車の窓から星が見える。
降っていた雪も先程止んで、今は深い夜空が広がっている。
雪の重みに耐えかねた枝がしなり、ぱらぱらと雪が散って風に流れた。
ルーファスは昨日から視察へと行ってしまった。
寂しい気持ちと同じくらい、ほっとしてしまうのは……自分でも気持ちに整理がつけられていないからかもしれない。
出発間際、心配そうに眉を下げるルーファスの事を思い出す。
『俺もいないし欠席してもいいんだが……』
『大丈夫よ。今までの付き合いに水を差すわけにはいかないわ。それに、お義父様とお義母様にお願いしてくれたんでしょう? 一緒に居るから心配しないで』
『……サフィア』
『なぁに?』
『帰ってきたら、少し話をしよう』
真剣な眼差しに、頷く以外に出来なかった。
彼が望めば身を引くつもりだけど、自分から言い出す事が出来ないでいる。彼が何も言わないならこのまま、ルーファスの妻という場所に居続けたいと……そんな卑怯な自分が嫌いだ。
「サフィアちゃん、今日の夜会は昔馴染みの家のものだから安心してね」
掛けられた声に顔を上げる。
馬車でわたしの前に座るのはお義父様とお義母様。わたしを一人で参加させるわけにいかないと、ルーファスがお二人を呼んでくれたのだ。わざわざ領地から出てきて貰うのも申し訳ないのだけど、お二人もデラリア家の皆様に会いたいからと快諾して下さった。
「はい、ありがとうございます」
お義母様はルーファスと同じ銀髪を緩く巻いて結い上げて、露わになった首筋がとても色っぽい。トパーズとダイヤモンドで出来たイヤリングと大振りのネックレスが、褐色の肌によく似合っている。
お義父様はお義母様とお揃いの紺色の衣装に身を包んでいる。ルーファスとよく似ているけれど、お義父様の方が穏やかそうに見えるのは、にこにこと微笑んでいるからかもしれない。
わたしは今日、淡紅色のドレスを着ている。アクセサリーにはルーファスの瞳と同じような深い赤色のガーネットが使われていて、髪飾りも同じ意匠のもので揃えていた。
ルーファスはいないけれど、わたしはベルネージュ侯爵夫人として夜会に参加するのだ。恥ずかしい振る舞いをしないように気を付けなければ。
そう心に思いながら、少しだけ不安な気持ちを誤魔化すようにまた空を眺めた。
弓のような月が浮かんでいた。
義両親に紹介して頂いたデラリア侯爵家の皆様は、とても朗らかで楽しい方々だった。
侯爵のお孫さんであるアリス様は大きなリボンを髪に飾った可愛らしいお嬢さんで、少しはにかみながらもご挨拶をしてくれた。イチゴが好きだという事で、軽食のスペースで一緒にイチゴのケーキを食べたのだけど、にこにこと笑み綻ぶ様子がとても可愛い。
ヘレンも招待されていて、彼女も軽食スペースに立ち寄ってケーキを食べていった。
後でまた、と去っていくのをアリス様と二人で見送って、わたし達はまたデザートを楽しむ時間を過ごしたのだった。
眠たくなってしまったアリス様がご両親と一緒に退室した後は、わたしは壁に控えて休憩する事にした。
義両親のおかげで挨拶周りも無事に終わったし、アリス様のおかげで美味しいデザートも沢山頂いた。少し休憩をさせて貰おう。
そう思いながら、用意されていたロゼワインのグラスを手にした時だった。
「サフィア?」
不意に名前を呼ばれて、無意識に振り返る。
そこにいたのは、ここにいるはずのない──ロータルだった。
わたしの、元婚約者。隣国で騎士団に所属している彼が、どうしてこの夜会に?
心臓がばくばくと落ち着かない。もう二度と会う事はないと思っていたのに。
「どうしてここに……」
「付き合いだ。縁戚の令嬢のエスコートを頼まれてね」
「そう。では失礼するわね」
「久し振りだな。元気そうで安心した」
この場を離れようとしたのに、わたしの言葉が耳に届いていないのかロータルは話を続けようとする。小さく溜息が漏れてしまったけれど、それさえ彼には聞こえていないみたいだ。
一口も飲めなかったワインが名残惜しいけれど、グラスをテーブルに戻した。
「あなたもね」
「まだ家にいるのか? 君もいい年齢だし──」
「結婚したの」
「は?」
彼の声にわたしを見下すような色が乗ったのが分かった。
持っていた扇を開いて口元を隠しつつ、彼の言葉を遮るようにして一言告げた。ロータルは目を見開いて、信じられないとばかりに固まっている。
「結婚? そう、か……俺との婚約が破談になったショックで、やけになって結婚したのか。この場にいるという事はまだ貴族籍だな? どこの後妻におさまった?」
「やけになったわけじゃないわ。わたしを大事にしてくれる人と、その人と幸せになりたいと思って結婚したのよ」
「強がらなくてもいい。傷物の君を拾ってくれるなんて碌でもない男だろう。俺の事を忘れられないんじゃないのか」
彼はこんなにもおめでたい頭をしていたのか。
ロータルの事が好きだった。絆を深めて、想い合っていると思っていた。でもそれはもう、過去の事。わたしの心にもう、彼はいない。
「失礼な事を仰るのね。あなたの事は今会うまですっかり忘れていたし、結婚を決めた事にあなたは全く関係ないわ」
「それは本当に君の望んだ結婚なのか?」
「そうよ」
「君がまだ俺を好きなら、俺の元に戻ってきてもいいんだぞ」
「……あなたは何を言っているの? 想い人は?」
予想外の言葉に寒気がした。露わになっている腕に鳥肌が立っている。
扇を持つ手に力が籠もった。
「彼女は……可愛らしいと思っていたんだが、それだけなんだ。知識もないし、俺を支えようともしない。やっぱり俺にはサフィアしかいない」
この人は何を言っているんだろう。
わたしから離れたのは、ロータルなのに。
「やり直そう、サフィア。離縁した君を俺は君を受け入れられる。傷物になったって、俺は気にしない。君はいつだって綺麗で、俺の事を支えて助けてくれていたな。それが俺への愛情だったと、あの頃の俺は気付けなかったんだ」
「そうですか。でもその提案はお断りさせて頂きます」
「なぜだ、サフィア。俺を愛しているだろう?」
扇を持つ手首を掴まれる。色が変わるくらいに強く握られて、痛みが走る。
ロータルは機嫌の悪さを隠そうともせず、わたしの事をじっと見つめていた。
怖い。
「君が俺を拒むなんてありえないだろう」
「離して……っ!」
「サフィア!」
わたしとロータルの間に入ったのはヘレンだった。慌てたようにぱっと手を離したロータルがにっこりと笑みを浮かべている。
「暴力は宜しくなくてよ」
「暴力なんてとんでもない。サフィア嬢が立ち眩みをしたようだったから、支える為に咄嗟に掴んでしまっただけだ」
「手の痕が残るくらいに強く? 信じられませんわね」
ヘレンの声は険しい。わたしは深呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻そうとした。扇を持つ手がまだ震えている。手首には彼の指の痕がくっきりと残されていた。
「サフィアちゃん」
「何があった」
大きな騒ぎにはなっていないと思うけれど、わたしの様子に気付いたのか義両親が駆け寄ってきてくれる。わたしとヘレン、それからロータルへと視線を巡らせたお義父様は眉を寄せた。
「彼女も大丈夫そうですし、私はこれで失礼します。サフィア嬢、また近いうちに」
「その機会はありません」
「……サフィア?」
ヘレンの後ろから一歩前に足を踏み出したわたしは、開いたままの扇をパチンと閉じた。取り繕うのも忘れて、ロータルがわたしの名前を口にする。
意識して背筋を伸ばし、大きく息を吐く。それからまた息を吸った。
「わたしはベルネージュ侯爵夫人です。ベルネージュ侯爵家はガイスラー伯爵家と付き合いもないですし、これからも付き合いが始まる事はないでしょう」
「侯爵、夫人……。だが、俺達は幼馴染で……」
「ええ。ですがその関係も終わっています。さようなら、もう二度と会う事もありませんがお元気で」
口元に笑みを浮かべたまま、わたしは静かに言葉を紡いだ。
少しでも凛として見えるように、姿勢を正しながら。
ロータルは何かもごもごと口ごもって、その場を立ち去って行った。
その背中を見て思った事はひとつだけ。もう二度と会う事がありませんようにと、それだけだった。
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