29.重ならない視線(ルーファス)
王宮、第三王子筆頭補佐官執務室は緊張感に包まれていた。
書類を届けに来た部下が息を殺す。たとえ呼吸だとしても、音を立てる事さえ許されないような緊迫した雰囲気だった。
そんな緊張感を生み出している当人──ルーファスは一心不乱に書類にペンを走らせていた。計算が間違っているもの、不備があるものは一目確認しただけで弾かれる。
積み上げられた書類の山が一つ終わったところで、ルーファスは深い息を吐いた。処理済のものを持って行こうとする部下が、「ひっ……!」と短い悲鳴をあげて、慌ただしく執務室から去っていく。
青いガラスで作られたペンを台に置く。
首をぐるりと回すと解れていく感覚が広がって、体が凝り固まっていた事に気付いた。
机上に置かれている小さな時計に目をやると、もう夕方に差し掛かる頃だった。
用意されていたコーヒーカップを手にすると、すっかり冷たくなっている。カップを口に寄せて一口飲むと、香りも飛び、苦味が強くなっていた。
サフィアは今頃、刺繍をしているのだろうか。
タペストリーを完成させたいのだと、朝の見送りの時に話していた。
朝早いにも関わらず出仕する自分を送り出してくれる彼女は、いつも穏やかに微笑んでいる。
ただ……最近はサフィアと目が合わなくなった。
零した深い溜息は静かな執務室によく響く。
「……うまくやっていると思っていたのは、俺だけだったのか?」
ぽつりと漏れた呟きには焦りの色が広がっていて、ルーファスは自嘲に顔を歪めた。
サフィアと視線が重ならなくなって、違和感を抱くようになったのはいつからだろう。
いつも通りを装っていても、避けられているのは簡単に気付いてしまう。それでも……あからさまにそんな行動に出る事はないし、表面的にはいつも通りに接してくれている。
元々自分達の結んだ契約結婚とは、そういうものだ。
サフィアに何も問題はない。ルーファスはそれを分かっていた。だが……納得できるかは、また別の話だった。
直球でぶつかっても、サフィアが本音を零す事はないだろう。
困ったように笑って、心を押し隠すのが見えている。
ならばその原因を探さなければならない。
最初から自分の事を嫌っていたなら、結婚当初からそういう態度になっていてもおかしくはないはずだ。
だがそんな事はなかった。最近では、自分の想いが伝わっているのではないかと、そう思ってしまうくらい甘やかな表情を見せてくれていたというのに。
一気に距離を詰めたら、その分彼女が逃げてしまうのは分かっていた。だから少しずつ、と思っていたのだが……こうなれば何が正解だったのか分からない。
「考えられるのは、あの舞台を観に行ってからか……」
あの夜だって、サフィアは自分との時間を楽しんでいてくれたように思う。
唯一思い当たるのは……『初恋の人』という言葉。
サフィアは元婚約者に恋心を持っていた。それが初恋だったとしたら……彼女はあの舞台を見て、元婚約者の事を思い出したのではないだろうか。
カップを一気に傾けて冷たいコーヒーを一気に飲み干してから、ルーファスは席を立った。窓に近付くと、眼下に広がるのは明かりが灯され始めた城下街。
陽は遠くの稜線へと沈んでいくところで、空は紺と金、それから薄紅色に染まっている。
もし……サフィアが元婚約者に心を傾けていたとしても。
彼女を手放す事なんて出来ないと、ルーファスは分かっていた。
諦めていたサフィアが自分の妻となった。幸せな時間を知ってしまった今、もう離れられるわけがない。
だが、サフィアが……離縁する事を望んだら?
胸の奥に仄暗い炎が灯る。
どろどろとした感情が渦巻いて、吐き気を覚える。
どうしたらサフィアは、自分の事を見てくれるのだろうか。
不意にノックもなしに扉が開いた。
ルーファスが振り向くと、部屋に入ってきたのは上司であるヴィント第三王子だった。
「あれ? 随分悪い顔してるねぇ」
「気のせいです」
一度深く息を吸い、ゆっくり吐く。
気持ちを切り替えたルーファスは、応接セットのソファーに座るヴィント王子と向かい合うように、テーブルを挟んだ先のソファーへ腰を下ろした。
「急で悪いんだけど、視察に行って欲しいんだよね」
「視察ですか。どちらへ?」
「南の方に。ティーク子爵領で水路工事が行われているだろう? 進捗が芳しくないみたいで、ちょっと見てきて欲しいんだよね」
「かしこまりました」
「子爵からの陳情だから、後ろ暗い事はないと思うんだけど。工事用の魔導具に不具合があるような事も言っていたから、ちょっと確認してきて欲しいんだ。ついでにその周辺も見てきてくれたら助かる」
ヴィント王子がテーブルの上に日程表を置く。それを受け取ったルーファスは僅かばかり眉を寄せた。
「三日の行程になっていますが……」
「うん、足りない? 城の転移陣を使っていいし、君なら三日で回れるでしょ」
「一日で充分です」
「あのねぇ……」
きっぱりと言い切るルーファスに、呆れたようにヴィント王子は笑うばかりだ。
「君はそれで構わないかもしれないけど、向こうで案内する子爵の身になってみなよ。転移陣の管理者だってそんな強硬日程は迷惑に思うでしょ」
ヴィント王子の言っている事は尤もだった。
自分が我儘を言っている自覚もあり、ルーファスは頷く以外に出来なかった。
「……一週間後、ですか」
「うん。何かあった?」
「いえ、大丈夫です」
実のところ、何もないわけではなかった。
ベルネージュ家と付き合いのある、デラリア侯爵家の夜会がそろそろ開かれる頃だ。毎年恒例のもので、ルーファスも幼い頃から両親に連れられて参加している。
今年はサフィアと共に行こうと思っていたのだが、それは今口にするべき事でもないだろう。
「じゃあ宜しくね」
片手をひらつかせて部屋を出ていくヴィント王子を見送って、ルーファスは執務机へと戻った。日程表に改めて目を通し、必要な資料を用意すべくメモを取る。
デラリア侯爵家との夜会が、この視察と重ならないといいのだが。
そんな願いも空しく、帰宅したルーファスにデラリア侯爵家からの招待状が渡される。その日は、視察の日と見事に一致していた。
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