41.腕の中に守られて
「忘れてしまうなんて、俺はどうかしていたみたいだ」
大袈裟な程に溜息をつき、落ち込んで見せるロータルに何の感情も湧いてこなかった。
パチパチと、暖炉の火が爆ぜる音だけがする。
「忘れてしまうのなら、その程度のものでしかなかったのでしょう」
「そんな事はない。俺は……君に甘えていたんだと思う。二コラに惹かれたのも、ただの気の迷いだったと今なら思うよ。俺の胸にはずっと、サフィアが居たのにな」
「居なかったから、他の女性に目移りしたのだと思いますが」
言ってしまった。
当たり障りのない事だけを口にして、あとは聞き流して時間が過ぎるのを待とうと思っていたのに……ついつい反論をしてしまった。
ロータルが口にした『二コラ』という女性が、彼の想い人なのだろう。
わたしに婚約解消を申し出るほどに、その人に心を傾けていたのに。随分と移り気なものだと思った。
「サフィア、どうして俺の気持ちを分かってくれないんだ」
思い通りにならないからか、声に苛立ちが混ざり始める。
勢いよく立ち上がったロータルはテーブルを回ってわたしの隣に座ろうとする。それより先に立ち上がったわたしは、扉の方へ数歩近付いた。
ソファーの後ろに控えていたミラが、わたしとロータルの間に立ち塞がる。
ミラが危険な目に遭うようなら、いつでも魔法を展開しよう。そう思いながら、わたしは深く息を吐いた。
「どけ! 使用人風情が邪魔をするな」
「ガイスラー様、彼女が居てくれるからこそ、この場が成立している事をお忘れなく」
わたしの言葉に舌打ちをしたロータルは、渋々といったように元のソファーへと戻っていく。
正直……わたしはもう、座りたくない。でもずっとこのままというわけにもいかなくて、仕方なしに先程まで座っていた場所へと戻った。またミラが後ろに控えてくれる。
「ガイスラー様、もう宜しいでしょうか。あなたが何を言おうとも、わたしは夫と離縁するつもりはありません。もうわたし達の関係は終わっているのです」
「そんな……サフィア、君は俺を見捨てると言うのか」
「何をおっしゃっているのですか? 見捨てるも何も、もうわたし達の間には何もないではありませんか」
これが嘘偽りのない、わたしの気持ちだった。
わたし達はもう関係のない人。何の繋がりもなく、切れてしまった糸を結び直す事もないだろう。
ロータルは『どうして分かってくれないのか』なんて口にするけれど……それはわたしが言いたいくらいだ。
「どうしてそんな事を言うんだ……。君が俺の元に戻れば、きっと今までのようにうまくいくんだ。頼むよサフィア、俺を助けてくれ」
「わたしには何も出来ません」
「……くそっ! 下手に出ていればいい気になりやがって!」
激昂したロータルがテーブルを蹴り飛ばして立ち上がる。ガチャンと派手な音がして、テーブル上の茶器が床に落ちて割れてしまった。
心臓がばくばくと騒がしくなる。怖い。その行為も大きな声も恐ろしくて、指先が震えてしまう。ぎゅっと拳を握ってそれを隠した。
「来るんだ、サフィア。俺とやり直すと言ってくれれば、両親も騎士団の奴らも俺への評価を元に戻すんだ。俺には非がないと君がそう言って、俺の傍に居れば済むだけの話なんだ」
「お断りします」
立ち上がったわたしが逃げるよりも早く、ミラが庇うように前に立ってくれる。
そんなミラを押しのけながら、ロータルはわたしの腕を強く掴んだ。ミラはそれを解こうとしてくれているけれど、さすがに騎士であるロータルの力には敵わないようだった。
「離して!」
「オールセン夫人の転移で国に戻るよりも先に、君の魔法を封じるのが先だな。大丈夫、ちゃんと準備してあるんだ」
ロータルがジャケットのポケットを探り、魔導具を取り出した。首輪の形をしたそれは、彼の言葉を信じるのなら魔封じの為のものなんだろう。
あれを着けさせるわけにはいかない。わたしは空いている手の指先を魔導具に向けた。
指先に生み出した炎は、一瞬で魔導具に燃え移る。ロータルは慌ててそれを床に放り投げ、その隙にわたしはロータルの腕を振りほどいた。
ミラと共に後退りながら、床で燃える魔導具に今度は水魔法を展開する。焦げ臭い臭いが部屋に満ちて、絨毯は黒く煤けてしまっていた。
「サフィア! いい加減にしろ!」
ロータルが怒鳴るのと同時に、勢いよく扉が開いた。ノックも前触れも何もなかった。
振り返るよりも早く、わたしの体は後ろから抱き締められていた。
この腕の温もりを、この香りをわたしは知っている。
「……ルーファス」
「すまない、遅れた」
わたしの事をきつく抱き締める彼は、安堵したように深い息を吐き出した。
先程までの震えがおさまっていく。もう大丈夫だという安心感が胸いっぱいに広がって、目の奥が熱くなるのを感じていた。
「ロータル・ガイスラー。随分と俺の妻にご執心のようだな?」
「彼女は俺の婚約者だったんだ。些細な事ですれ違ってしまったが、いまも俺達は──」
「想い合っているなんて、馬鹿な事を口にしてくれるなよ」
ロータルの言葉を遮るルーファスの声が、凍てつくように冷たい。
威圧を含むその低音にロータルが怯んだのも一瞬で、強くルーファスを睨みつけている。
「言っておくが、サフィアを連れ帰ったとして君の評価が上がる事はない。君の家、騎士団の面々……彼らが君に失望したのはその振る舞いが原因だ。君がやるべき事はサフィアに縋るのではなくて、誠実さを見せる以外にないと思うが」
「……お前に何が分かると言うんだ」
「分からないし分かりたくもないな。君が手放してくれたおかげで、俺はこんなに素晴らしい女性と結ばれたというのは……複雑なところではあるがな」
ルーファスは淡々と言葉を紡いでいるように見えるけれど、その内心では非常に怒っているのが伝わってくる。わたしを抱く腕にそっと両手を添え、肩越しに振り返るように彼を見上げた。
赤い瞳は怒りに色を濃くしていた。無表情だけれど、ひどく怖い。
ひりつくようなその空気を断ち切るように、パンパンと手を叩く音がした。
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