43.愛しさに溺れて
ロータルとの一件が片付いて、一か月が経った。
わたしは平穏な毎日を過ごしている。実家の母から聞いたところによると、ロータルは結局、想い人と婚約を結ぶ事が出来ずにお別れする事になったそうだ。
いまは騎士団でまじめに働いていると聞くけれど……正直なところ、何も心は動かなかった。
良かったとも特に思わない。それだけ過去の事だと割り切れているのだと思う。
まだ春は遠く、今日も雪が降っている。
それでもだんだんと陽が長くなっているから、季節が巡っていくのを感じていた。
外灯に照らされる雪は、羽のようにゆっくりと舞い落ちている。少し大きな雪がふわふわと舞っている様は幻想的だった。
「寒くないか?」
「ええ、大丈夫よ」
馬車の窓から外を見ていたわたしは、掛けられた声に返事をしながらルーファスの方へと顔を向けた。
目が合うと、それだけで彼の笑みが深くなる。その甘やかさに鼓動が跳ねた。
今日はホルシュ伯爵家での夜会に御呼ばれしている。
ヘレンが経営している服飾メゾンの新作をお披露目する場でもあり、今夜のわたしはその新作ドレスを纏っていた。
淡い紫色のドレスはボリュームのあるスカートが特徴的で、チュールレースがたっぷりと重ねられている。スカートに施されている刺繍はマーガレットとラベンダーで、これはわたし達の結縁花に合わせて仕立ててくれたものだ。
ウエストには細いリボンが何本も重なって結ばれて、まるで花のよう。
ルーファスの衣装もわたしとお揃いになっていて、白いズボンに淡い紫のジャケットがよく似合っている。タイにはマーガレットとラベンダーの刺繍がされていて華やかだ。
タイピンにはわたしの瞳のようなサファイアが使われている。
「今日も綺麗だな。このまま屋敷に戻って、部屋に閉じ込めたいくらいに」
「ミラが手を掛けてくれたからよ。あなたも素敵で、誰にも見せたくないくらいなんだけど……さすがにこのまま帰ったら、ヘレンに叱られてしまうわね」
「今日はヘレンのメゾンの広告塔だからな」
「精一杯勤めなくちゃ」
わたしはスカートに咲いたラベンダーの刺繍を指でなぞった。
ルーファスがその指を取って、自分の唇に寄せる。高い音を立てて吸い付かれて、顔がかあっと赤くなるのが分かった。
いつになったら慣れるのだろう。
こんなにもドキドキしていたら、もう本当に壊れてしまうかもしれない。
「……そんな可愛い顔をされたら、キスをしたくなるんだが」
「な、っ……だめよ、口紅が取れてしまうもの」
「残念」
くく、と低く笑うルーファスが楽しそうで少し悔しい。
いつもわたしが翻弄されているみたいだもの。その余裕を崩してやりたいと思ってしまう。
「でも……本当はわたしもキスをしたいわ」
ぽつりと零した言葉は、彼を動揺させたかったから……だけじゃなくて。本音を混ぜた願いなのだけど、その効果は覿面だった。
彼の顔から笑みが消える。赤い瞳が色を濃くする。わたしを欲する眼差しに貫かれて……ああ、これは悪手だったかもしれない。
彼の手がわたしの後頭部に回り、逆手で顎を持ち上げられる。
火傷しそうなくらいに熱い吐息が重なって、彼の顔が近付いてくる、唇が触れそうになった時──馬車が止まった。
「くそ、時間切れか」
掠れた声で悪態をついて、彼がゆっくりと離れていく。
火を点けたつもりが、わたしの方が焼かれてしまいそう。ドキドキと鼓動が騒がしくて、落ち着かない。
「屋敷に戻ったら、手加減はなしだ」
馬車の扉が開く刹那にそんな事を言われたら、言葉を返す事も出来なくて。
扉を開けてくれたホルシュ家の使用人に会釈をしながら、わたしは深呼吸を繰り返した。
エスコートしてくれるルーファスの腕を強く掴んで抗議をしても、彼はおかしそうに笑うばかりだった。
ホルシュ伯爵家の大広間は、既に多くの人達で賑わっていた。
挨拶をしようとヘレンに近付くと、わたし達に気付いたヘレンが駆け寄ってくる。ホルシュ伯爵はそんなヘレンに苦笑いをしながらも、注がれる眼差しはひどく優しい。
「来てくれてありがとう! 二人ともよく似合っているわ!」
わたしに抱き着くヘレンの背に、わたしも両手を回してそっと抱き締めた。
ヘレンのオレンジ色の髪が動く度に肩上で跳ねる。髪飾りにあしらわれているカーネーションはヘレン達の結縁花だ。
「お招きありがとう。今回のドレスもとっても素敵よ」
「ふふ、自信作だもの。あなた達が着てくれたらいい宣伝になるわ」
「そうなれるよう、沢山の人に見て貰わないとね」
わたし達がお喋りに花を咲かせる隣で、ルーファスとホルシュ伯爵もお話をしている。
新作のドレスを着ているわたし達が揃うと目立つのか、招待客の女性陣からの視線を強く感じる。注目を集めるという事は成功しているようで、ほっとした。
少しの間お喋りをして、「またあとで」とその場を離れる事にした。
ホスト役であるホルシュ伯爵夫妻をいつまでも引き留めるわけにはいかないからだ。
「ダンスまでまだ時間があるようだな。何か飲もうか」
「いいわね」
広間の端にあるバースペースに向かう途中にも、まだ視線を集めている事に気付いた。
わたしのドレスもあるだろうけれど、やっぱりルーファスは人目を集める美貌をしているのだと改めて思う。
「ワインでいいか?」
「ええ、ありがとう」
ロゼワインで満たされたグラスをルーファスが渡してくれる。彼も同じものを楽しむようだ。
ふんわりと漂うのは苺の香り。ただのロゼワインではなくて、苺のワインらしい。ルーファスはそれを知っていて、これを選らんでくれたのだろう。
感謝しながら一口を飲む。苺の爽やかな甘味が口の中に広がって、まるで苺をそのまま口に入れているみたい。それでも吐いた息には酒精が混ざっているから、やっぱりワインなのだと実感する。
「美味しい」
「良かった。気に入ったならうちでも取り寄せようか」
「お願いしたいわ。寝る前に少し楽しむのにもよさそうだもの」
「じゃあ帰ったらすぐに手配しよう」
「あなたも気に入った?」
「そうだな。君が喜ぶものは何でも好きだが」
さらりと紡がれるその言葉に、胸の奥がぎゅっと切なくなってしまう。甘やかされて、愛されていると分からせられているようで。
「もう、そうやってわたしを甘やかすんだから」
「これはもう俺の生きがいだな」
「なぁにそれ」
くすくすと笑みを零すと、つられるようにルーファスも笑う。
わたしを見つめる眼差しはいつだって優しいけれど、その瞳には熱が籠って赤が色を濃くしている。
ああ、好き。
その瞳も、低い声も、温もりも……何もかもが愛しくて堪らない。
ワイングラスを持つのとは逆手で、またルーファスの腕に手を絡める。
くっつきたくて、その欲のままに体を寄せるとルーファスの笑みが深くなった。
溺れてしまいそうなくらいに、愛しい。
広間に流れる軽やかな音楽が、どこか遠くで聞こえるようだった。
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