10.距離
距離が近い。
わたしの頭の中はもうずっと、その事でいっぱいだった。
サロンまでずっとわたしの腰を抱いていたルーファスは、サロンのソファーでもわたしと並んで座っている。もちろんお茶を頂く為に、腰から手は離れたけれど……それでも、隣り合うわたし達の距離が近いような気がするのだ。
今まで異性とこんなに近い距離で過ごした事がなかったから、気にしすぎているのかもしれない。
婚約者だったロータルは隣国で暮らしている事もあって、そもそも会う事も頻繁ではなかった。こんな距離になった事もない。
学院時代は婚約者が居たから、異性との接触は意識的に避けていた事もある。
ドキドキするし、緊張するし、恥ずかしい。色んな思いが混ざり合っているけれど、離れて欲しいと強く思うわけではない。
それはきっと、相手がルーファスだからなんだと思っている。
「何か考え事か?」
ルーファスにそう問われて、はっとしながら顔を上げた。
心配そうな赤い瞳と目が合って、何でもないと微笑んで見せた。手にしたままだった紅茶のカップを口に寄せて一口飲むと、垂らしたミルクがほんのりと甘くて美味しかった。
「ケーキがどちらも美味しそうで、悩んでしまったの」
誤魔化すように口にした言葉も、紛れもない本心だった。
テーブルの上に用意されているのは、苺の乗ったチョコレートケーキ。もう一つは綺麗な焼き色のチーズケーキ。
どちらを食べようか迷ってしまう。
「両方食べればいい」
「もうすぐ夕食の時間でしょ。今日の夕食はお祝いだって、厨房の皆が忙しくしていたもの。ケーキでお腹をいっぱいにするわけにはいかないわ」
「そうか。それなら俺と半分ずつ食べるのはどうだ?」
言いながらルーファスはチョコレートケーキを皿に取ると、わたしの前に置いてくれる。同じように自分の前にはチーズケーキの皿を置いた。
サロンの中にはわたし達しかいない。
ミラとユリウスはお茶の準備をすると、魔導具のベルを置いてサロンを後にした。
だから余計に、ルーファスの事を意識してしまうんだろうか。
目の前に置かれたチョコレートケーキはとっても美味しそうだ。でもやっぱりチーズケーキも捨てがたい。
両方食べられる半分こは、とっても魅力的な提案だった。
「それなら両方食べられるわ。ありがとう」
早速、フォークでチョコレートケーキを半分に切る。苺はどうしたらいいだろう。わたしの大好きなものだけど、ルーファスだって食べたいかもしれない。
ナイフがあれば半分に出来るけれど、その為にミラを呼ぶのも憚られる。
かといって魔法を使うのも躊躇われるし……。
わたしが思いを巡らせている事に気付いたのか、ルーファスが可笑しそうに低く笑った。
「苺は君が食べていいぞ」
「どうしてわかったの?」
「可愛い顔をしていたから」
「……よく分からないけれど、ありがとう」
空いた皿にチョコレートケーキを載せて、ルーファスの前に置く。同じようにルーファスも半分のチーズケーキを別の皿に載せてくれた。
まずはチョコレートケーキから頂こう。苺は最後のお楽しみだ。
一口大に切ったケーキを口に運ぶ。ココア生地のスポンジはびっくりするくらいに軽やかで、チョコレートが混ぜ込まれたクリームとよく合っている。削ったチョコレートが上に散らされていて、それがいいアクセントになっているのがとても美味しい。
「今日は何をして過ごしてた?」
「お屋敷の中を案内して貰ったわ。それから使用人も紹介して貰ったし、温室にも行ったの」
「温室はどうだった?」
「とっても素敵だった。あんなに大きな温室を見たのは初めてよ。魔法での管理も繊細な調節が必要なのに素晴らしいわ」
「気に入ってくれて良かった」
コーヒーを飲みながら、ルーファスが安心したように微笑んだ。
ソファーに深く座り、寛いでいるのが分かる。学院や、ドルチェネ家に来ていた時には見られないような姿だった。
「そういえば、今日はお休みの予定だったんですって?」
「そう。長期休みもそのうち取る予定ではいるんだが、今はまだ少し難しそうでね。せめてもと式の翌日は休みたかったんだが……」
「昨日はあなたも疲れたでしょうしね。明日は?」
「明日も仕事。別に昨日の式や食事会は疲れていないんだが……少し君とのんびりする時間は欲しかったな」
「次のお休みはのんびりしましょう」
わたしの言葉に頷いたルーファスもフォークを手にして、チーズケーキを食べ始めた。
紅茶を飲みながら、何となく彼の所作を見ていると長い指に目が留まる。左手薬指に咲いているマーガレットとラベンダー。褐色の肌に、その花々はよく映えている。
それを見て、わたしの胸によぎったのは昨日感じた罪悪感だった。
「ねぇルーファス、少し零してもいい?」
「もちろん」
学院時代も、こうしてルーファスに色々話を聞いて貰ったっけ。
懐かしさを感じながら、わたしはそっと口を開いた。
「昨日のお式も、その後の食事会も……皆がわたし達の結婚を祝ってくれていたじゃない?」
「ああ」
「嬉しいし有難いんだけど……何だか申し訳なくなってしまって」
一度言葉を切って、カップを手にして口に寄せる。ミルクティーを一口飲んでから、深く息を吐いた。
ルーファスはまだ何も言わない。彼はいつも、最後までわたしの話を聞いてくれる。
「わたし達は契約結婚でしょう? それを知らない家族は、純粋に結婚を喜んでくれていて……騙しているような気持ちになってしまうの。ああ、勘違いはしないでね? だからといってあなたとの結婚を後悔しているわけではないし、愛してほしいと言っているわけじゃないわ。これはわたしの、気持ちの問題で……ちょっとあなたに零したかっただけで……」
「分かってる。サフィア、貴族の結婚なんて政略を含んだ契約結婚ばかりだろう? 別に珍しいものじゃない」
「それは……そうね」
「悪い事をしているわけじゃない。俺は君を大事にするし、君もそうであってくれるだろう?」
「もちろん」
「なら何も問題ない。契約結婚だからといって、幸せになっていけないわけじゃないんだ。俺は君と一緒に、この結婚で幸せになれると思っているよ。家族が願うのは、俺達が幸せな結婚生活を送る事なんだから、そこに嘘偽りはない」
「……確かに」
確かにルーファスの言う通りだ。
わたしは少し考え過ぎていたのかもしれない。
胸の奥に巣食っていたもやもやとした気持ちが、霧が晴れていくかのように消えていく。清々しい気分に、わたしはほっと笑みを零した。
「真面目な君のことだ、悩んでいたんだろう? 教えてくれてありがとう」
「わたしの方こそ。一緒に解決してくれてありがとう」
「これからも何かあれば、いつだって言って欲しい。どんな些細な事でも構わないから」
「ええ、あなたもね」
こうして色々な思いを重ねて、わたし達は夫婦という形を作り上げていくのかもしれない。そこに恋がなくても、家族の愛はきっと生まれ育まれていく。
そう思っていたら……不意に、ルーファスがわたしの肩を抱いた。
あまりに突然の事で、持っていたカップを落とさなかったのが不思議なくらいに驚いてしまった。
「ル、ルーファス?」
「少しは慣れて貰おうかと。これから年を越して新年を迎えれば、出席しなければいけない夜会も出てくる。初々しい反応も可愛らしいが、夫婦らしい振る舞いも多少は必要となるからな」
「それは……ええ、そうね」
そっと顔を上げると、わたしを見つめるルーファスと目が合ってしまう。
その眼差しが式の時のように甘さを秘めているようで、わたしの胸は騒がしくなってしまう。
でも確かにルーファスの言う通りだ。
契約結婚だと知られたら、またルーファスの元には釣書が殺到するかもしれない。それを避けるためにも夫婦らしい振る舞いは必要で、それにはこの距離に慣れる必要があるわけで。
そんな事を思いながら深呼吸をすると、可笑しそうにルーファスが笑う。
笑われた事が悔しいけれど、でもまぁそれも仕方がない。持っていたままのミルクティーに目を落とした。
そういえば……彼は甘いものをそんなに食べなかったのではないだろうか。嫌いではないと言っていたけれど、好きだとも聞いていない。
もしかしたら、わたしに両方食べさせる為に……?
彼の優しさを感じて、胸の奥が暖かくなる。
ドキドキするけれど、そっと彼に体を寄せてみた。先程よりも近い距離に、彼の纏うコロンの香りまで分かるほどだ。
動揺したのか、わたしの肩を抱く彼の手が強張ったのが分かった。
だから今度は、わたしが笑った。
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