9.最初の朝

 意識が浮上する。

 ゆっくりと目を開けた先の天井は、長年見慣れたものとは違っていて……ああ、わたしはベルネージュ侯爵家に、ルーファスの元に嫁いだのだとぼんやりと思った。


 どれくらい眠っていたのだろう。

 ふかふかの寝具が気持ち良かったのもあるけれど、少し寝すぎてしまったかもしれない。


 上体を起こして、枕元のベルを鳴らす。

 チリン……と澄んだ音が響くのはこの室内だけでなく、ミラの元にも届いているはずだ。


 カーテンの隙間からは眩い光が差し込む様子がない。今の時期は日の出も遅いし、天気だって悪くなりやすいから、それだけで時間を推定するのは難しいけれど……。

 そう思いながらベッドサイドのテーブルに置かれた時計に目をやると、なんともう八時をとっくに過ぎていた。


「……いけない。お寝坊しちゃった」


 いつも起きる時間より二時間も遅い。

 ミラに起こして貰うようお願いしておけばよかった。いつもちゃんと目が覚めるからと油断していた。

 ルーファスはもう起きているだろうか。嫁いできて初めての朝にも関わらず大失態だ。心臓がばくばくと落ち着かなくて、もうベッドに居られなくて立ち上がった。


 ──コンコンコン


「奥様、ミラでございます」

「入って頂戴」


 ミラの声は昨日と何ら変わりない。

 静かに部屋に入ってきたミラは、わたしの姿を見て一瞬だけ目を丸くした。それは──わたしが落ち着きなく部屋の中を歩き回っていたからかもしれない。

 彼女はすぐに微笑みを浮かべながら、両手に持っていた銀トレイをわたしへと差し出してくれる。


「おはようございます。こちらは旦那様からのお手紙です」

「おはよう。わたしったらすっかりお寝坊してしまって……って、ルーファスからの手紙?」


 銀トレイには封筒と一輪の薔薇の花が載せられている。

 

 それらを受け取って、ソファーへ移動して腰を下ろした。ローテーブルに薔薇を置き、封筒を開けて、中の手紙を確認する。


【おはよう。

 疲れているだろうから、今日は起こさないようにと皆に言ってある。ゆっくり眠れただろうか。

 式の翌日に大変申し訳ないのだが、急な会議が入って仕事に行かなければならなくなった。出来るだけ早く帰るから、君はのんびり過ごして待っていてほしい】


 少し角ばった、丁寧な文字。

 それを指先でなぞると、口元が自然と綻んだ。


「ルーファスはお仕事なのね」

「折角のお休みだったのにと、大層嘆いておられたそうです」


 その様子が思い浮かぶようで、くすくすと笑みを零してしまった。

 見送る事が出来なかったのは残念だけど、彼の気遣いのおかげでゆっくり眠る事が出来たのは有難い。彼の帰宅はしっかりと出迎えよう。

 そう気持ちを切り替えたわたしは、テーブルから薔薇と手に取って顔に寄せた。甘い香りがふわりと漂う。


「この薔薇も飾っておいてくれる?」

「かしこまりました」


 返事をしながら、ミラがカーテンを開けてくれる。

 大きな窓から見える空には雪雲がかかっている。はらはらと雪が舞い落ちるのを見て、ルーファスが帰る頃には止んでいるといいなと願った。



 *****


 ミラに支度をして貰う。

 薄く化粧をして、髪は一本の三つ編みにして肩から胸へと流している。菫色のデイドレスは長袖の手首と襟元に白いレースがたっぷりとあしらわれていて可愛らしいものだった。


 それから美味しい朝食を頂いた後は使用人を紹介して貰った。

 皆がわたしに好意的なものだから、少し驚いてしまったくらいだ。事情が事情なものだから、ここまで受け入れて貰えるとは思っていなかった。

 それをミラに零すと、女主人がいないお屋敷が寂しかったのだという。お屋敷の使用人にはミラをはじめとして、わたしと同年代の人も多いらしく、学院でのわたしとルーファスの様子を知っている人も多いのだとか。


「ミラも学院に居たのよね?」

「はい。私は侍女教育学科におりましたので、奥様の魔法教育学科と学舎が離れておりましたが、旦那様と奥様、それからホルシュ伯爵夫人の優秀さは有名でした」


 学院時代は魔法に夢中になっていたから、優秀だったのは自分でも認めざるを得ない。

 魔法学科の人達が学年が違っても知っていたりするのだけど、ほとんど自分の学舎から出る事も無かったから他の学科については詳しくなかったのだ。


「奥様は旦那様が学院の時からずっと気を許している方ですから。私共はお会いする前から、奥様の事をお慕いしていたのかもしれません」


 笑み交じりにそんな事を言ってくれて、何だか恥ずかしくなってしまう。

 でもこれはルーファスが築いてきた信頼関係の一つなんだろうと思った。わたしが受け入れられているのも、ルーファスへの信頼があっての事だ。


 ルーファスの為に、わたしが出来る事は何でもしよう。

 改めて、そう思った。



 お屋敷の案内をしてもらって、昼食を頂いて、温室にも行ってみた。

 魔法を使って上手に管理しているらしく、温室の中は様々な季節の花で溢れていた。庭師とも話せたのだけど、春になったらお屋敷前の花壇が花でいっぱいになるのだとか。

 わたしの好きな花も育ててくれるというから、今から雪解けを楽しみにしている。


 それからサロンでケーキを頂こうとしている時だった。

 執事のユリウスがサロンにやってきて、にこにこと楽しそうに微笑んでいる。


 ユリウスはお義父様の代からずっと仕えてくれている執事で、ルーファスが子どもの時には仕事の合間に遊んでもらったと聞いている。

 短く整えた髪には白髪が混じっているけれど、姿勢が良く燕尾服をきっちりと着こなしている姿は年齢を感じさせないものだった。


「奥様、旦那様がまもなくお帰りになるようです。お迎えになりますか?」

「ええ。教えてくれてありがとう。ミラ、ケーキは後で頂くわ」

「かしこまりました」


 テーブルの上のケーキには既にドーム型のガラスカバーをかけられている。

 ミラがわたしの前髪を直してくれるのを待って、わたしはユリウスとミラと共にエントランスへと向かった。



 エントランスホールで帰宅を待つのは、わたし達だけだった。他の使用人は仕事をしていて、出迎えるのはいつもユリウスだけなのだという。

 大きな出迎えはいらないとルーファスが常日頃から言っているそうだけど、これからはわたしも彼の帰宅をこうして出迎えようと思った。


 ホールの床に魔法陣が浮かび上がる。これはルーファスの魔力だ。学院時代からずっと彼の魔法を近くで見てきたのだから、よく分かる。

 何だか懐かしい気持ちで胸がいっぱいになる事を自覚していたら、眩い光がホールに溢れた。その瞬間──魔法陣の上にはルーファスの姿があった。


「……サフィア?」


 彼はわたしを見て驚いたように目を瞠っている。

 そんな様子が珍しくて、くすくすと笑みを零してしまった。


「お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした」

「あ、ああ。……待っていてくれたのか」

「ええ。朝もお見送りをしたかったのだけど、すっかりお寝坊してしまったわ」

「いや、ゆっくり休めたならそれが一番だ」


 ふ、と優しく笑ったルーファスが手にしていたカバンをユリウスに預ける。慣れた様子でそれを受け取ったユリウスが一歩下がると、ルーファスはわたしの腰に手を回して抱き寄せた。


 距離が近い。

 一気に心臓が騒がしくなる。耳元に心臓が移動したんじゃないかと思うくらいに喧しい。


「待っていてくれてありがとう。時間があるなら、これからお茶でもどうだろうか」

「え、っと……ケーキを用意して貰っているから、良ければそれを一緒に……」


 口がうまく回らないのは、この距離に動揺しているから。

 そんなわたしの様子に低く笑ったルーファスは、腰に手を回したまま歩き始めた。


 このままサロンに向かうの?

 わたしの心臓はもつのだろうか。


 わたし達が契約結婚だというのはお屋敷の皆が知っている事なのに、この距離の近さは一体どういう事なんだろう。

 問いかけようにもルーファスが機嫌よさげに笑っているものだから、口を開く事は出来なかった。

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