21.信じる気持ち
力強いノックの音が部屋に響いて、わたしは驚きに肩を跳ねさせた。
ぼんやりしていたみたいで、部屋の中はすっかりと暗くなってしまっていた。指先を振って、ベッドサイドのランプに明かりを灯す。
窓の向こうに広がる空には夜の帳が降りている。月のない空に星が瞬いていた。
またノックの音がした。
まだ頭がはっきりしていなかったのかもしれない。慌てて体を起こすと、扉へと駆け寄った。ノックの主を待たせてしまって申し訳ない。
はい、と返事をしながら扉を開ける。
その瞬間──わたしの体はルーファスの腕の中にあった。
「……ルーファス? え、もうそんな時間? ごめんなさい、お出迎えもしないで……」
自分がルーファスに抱き締められている事に気付いたわたしの声は上擦っている。
部屋に戻った時はまだ夕暮れが始まるところだったのに、彼が返ってくるような時間まで部屋に籠もっていた事も、その動揺に拍車をかけていた。
「サフィア」
ルーファスの低い声がわたしの名前を紡ぐ。深い息が耳元に掛かって擽ったいのに、彼の腕から抜け出せる気なんてしなかった。
ぎゅうぎゅうにきつく抱き締められて、恥ずかしくて苦しいのに……離れたくない。おずおずと彼の背中に両手を回すと、わたしを抱き締める腕に力が籠もったのが分かった。
ここをわたしの場所にしてしまえたらいいのに。
そんな浅ましい願いが胸をよぎる。
でも、それは願ってはいけない事。
アイリス様の言う通りだったら、わたしは二人を引き裂いた邪魔ものなんだから。
「まずはこれだけ言わせてくれ。俺はアイリスと婚約をしていた事はない」
はっきりとした物言いに、わたしは目を瞬いてしまった。
ルーファスが腕からゆっくりと力を抜いていく。わたし達の間に出来た隙間が寂しくて、少し寒ささえ感じてしまうほどだ。
間近にわたしを見つめる赤い瞳に、嘘を見透かす事なんて出来なかった。
とりあえず、廊下で話すのも何だから……と、わたしはルーファスを自室に案内した。
この部屋を整えてくれたのはルーファスだから内装などは知っているはずなのに、彼の視線が部屋を巡る。
ソファーに並んで座ったわたし達の間に距離はない。
肩が触れ合う距離で、ルーファスはわたしの手をぎゅっと握っていた。
「不快な思いをさせてすまない。さっきも言ったが、俺はアイリスだけでなく他の誰とも婚約をした事はない。結婚の約束云々は、彼女が勝手に言っているだけで俺は了承した事なんてただの一度もない事を信じて欲しい」
ルーファスはわたしを真っ直ぐに見つめていて、わたしもその眼差しから目を逸らす事なんて出来なかった。
繋ぐ手から伝わる温もりが、わたしの体まで暖めていくようだ。冷たかったはずの手は彼の熱を分けて貰って、すっかり彼の温度と馴染んでいる。
「アイリスは幼い頃からずっと、俺と結婚すると言っていた。だが俺は子どもの言う事だからとそれを受け流した事はないんだ。いつもはっきり断っていた。それは俺の両親も、ユリウスも、昔からこの屋敷にいる使用人達も知っているが……それだと証人には弱いか。でも信じてくれと言う以外にないんだ」
どこか必死に見えるルーファスの姿が珍しい。
その言葉に嘘はないと思った。それは……わたしが信じたいと思っているからなのかもしれないけれど。
「成長してからの交流なんてほとんどない。だからまさか、アイリスが屋敷に乗り込んで、君を傷付けると思わなかったんだ。……これは俺の落ち度だ。何と言って謝ればいいのか……」
「あなたが謝る事なんてないわ」
首をゆっくり横に振りながらそう口にしても、ルーファスの表情は曇ったままだ。
二人の主張がまるっきり異なっている以上、どちらかが嘘をついているか誤解をしているわけだけど。
その場合、わたしがどちらを信じるのか──そんなの、ルーファスに決まっている。
「……わたしがあなた達を引き裂いてしまったんじゃないかって、それが恐ろしかったの」
ぽつりと呟いた言葉に、ルーファスが息を飲んだのが分かった。
勘の鋭い彼だから、わたしが過去の婚約破棄を思い出した事なんて分かっているだろう。自分にどんな配役をして想像をしたのかも。
「頼むからそんな事を言わないでくれ。君が気に病むような事は一切ないし、婚約だのはアイリスが思い込んでいただけだ。何度もそれを正そうとしたし会わないようにしていたんだが、こんな結果になるなら書面でも誓約でも拒否していた証拠を残しておけばよかった」
「ふふ、もう大丈夫。……取り乱してしまってごめんなさい」
彼が焦っているのなんて初めて見た。わたしに信じて貰おうとしている彼の姿を見て、何だか気が抜けてしまったような気がする。
くすくすと笑みを零すと、安心したようにルーファスも笑みを浮かべた。
「いきなりあんな話をされたら動転するだろう。アイリスはこの屋敷への出入りを禁止とした。デンドラム子爵家にそう通達したから、会う事はないだろう。夜会などで会う機会があったとしても、俺は君から離れないし必ず守る」
「ありがとう」
驚いたし、罪悪感に苛まれもしたけれど。
でも一番悲しかったのは……ルーファスと離れる事を考えた時だった。この距離に、わたしじゃない誰かが居る事が悲しい。
こんな事を口にしたら、彼を困らせてしまうだけだと分かっているから口にしない。
この関係を壊さないのが、きっと最善手だから。
「何か不安に思っている事はないか? 何でも遠慮なく言ってほしい」
「大丈夫よ。何かあればその時にちゃんと伝えるから」
ルーファスはわたしへと探るような視線を向けてくる。わたしが無理をしていないか、心配しているようだった。
だから少しだけ笑って見せた。満面の笑みはきっと、逆に怪しく見えてしまうだろう。
ルーファスは繋いでいる手を解くと、わたしの左手薬指に咲くマーガレットとラベンダーを指でなぞった。
彼の薬指にも同じ花が描かれている。わたし達の縁を結んだ花は、わたしの中でも特別なものになった。
ルーファスの肩に頭を預ける。
彼は肩を抱いて、わたしの体を抱き寄せてくれる。
とくんとくんと、鼓動は早まっていくばかり。これだけ騒がしかったら、彼にも聞こえてしまうんじゃないだろうか。
想いを告げる事は出来ないのだから、少しだけ、このままでいたかった。
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