33.帰還

 現れたルーファスは周囲に視線を巡らせて、状況を確認しているように見えた。汚れた壁紙、荒らされたベッド、引き裂かれたドレス、投げ壊されたアクセサリー、踏みつけられた跡の残る魔導書……それら一つ一つを見てから、彼が振り返る。

 視界に捉えたわたしの事も確認するように上から下まで視線を巡らせて、それからほっとしたように微笑を浮かべた。


 両手をわたしの背に回して抱き締められると、その温もりをどれだけ欲していたか思い知らされてしまうようだった。

 わたしも両手を彼の背に回して、体を預けた。


 昨日の事も、今日の事も……本当は凄く不安だった。

 不安だったし、怖い気持ちもやっぱりあった。でも、負けないように気を張っていた。

 彼が帰ってきてくれて、もう一人で頑張らなくてもいいのだと……そう思えて、震える吐息を深く逃がした。


「ただいま、サフィア」

「お帰りなさい。お帰りは夜だったはずじゃ……?」

「その予定だったんだが、ヘレンから昨夜の夜会の件を知らされてね」


 声が低くなる。

 怒気を含んだその声に、わたしが怒られているわけじゃないのに、少し体が強張ってしまう。


 昨夜の夜会の件。

 それは間違いなくロータルと出会ってしまった事だろう。ルーファスはそれを聞いて……急いで帰ってきてくれた。それが嬉しくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように切なくなる。


 ああ、やっぱりわたしはルーファスの事が好きなんだ。

 この温もりも、力強さも、わたしを見つめる眼差しも、甘い微笑みも、何もかもが愛おしい。


「まぁその件は後でゆっくり聞くとして。……これは一体何の騒ぎだ?」


 ルーファスの声が固い。

 わたしと一緒にいる時ではなく、他人が近くにいる時のような……外向きの声。


 わたしを抱いたまま振り返ったルーファスの視線がアイリス様に向けられている。

 急に現れたルーファスに驚いたのか、わたしに向かってきていたアイリス様の足は止まっていた。


「ルーファス兄様! アイリスがお嫁に参りました!」


 ルーファスの目に映る事が嬉しいのか、今までに聞いた事がないくらいに甘い声が弾んでいる。両手を胸の前で組んだアイリス様は、恋慕に瞳を潤ませながらルーファスの事を見つめていた。


「意味が分からない。アイリス、これは君の仕業か?」


 周囲の惨状に、ルーファスの纏う怒気が強くなる。

 思わず背に回した手で、彼のジャケットの布地を縋ってしまうくらいに、少し怖い。


「……あ、あの! ルーファス兄様、サフィア様は兄様と離縁するつもりだって……」


 ルーファスの問いに、そうだと頷く事は出来なかったのだろう。その表情も少し強張っている。

 でも、アイリス様の言葉に……ルーファスの怒気が膨らんだのが分かった。顔を上げるとその視線は凍てつく程に冷たくて、わたしまで鳥肌が立ってしまうくらいだった。


「……へえ?」

「これ! 濡れちゃったけど、サフィアさんが離縁に同意するって宣誓書で……」

「それについては、あとでサフィアにゆっくり・・・・聞くとして」


 ぞくりと背筋が震えてしまった。

 わたしと目が合ったルーファスはにっこりと微笑んでいる。甘やかで優しい笑みなのに、宣誓書の事について誤魔化せないと伝えてくるようだ。


「そ、それに……私、サフィア様に水を掛けられて! いじめられたの!」

「水を掛けられたくらいで済んで良かったな。ユリウス、被害額の算出を」

「かしこまりました。請求先はどうなさいますか」

「デンドラム子爵家だ。ミラ、サフィアが過ごす部屋を新しく準備してくれ。とりあえず既成のドレスの用意も」

「はい、かしこまりました」


 ユリウスは胸ポケットから魔導具の端末を取り出して、入力を始めている。ミラは一礼をした後に部屋を後にした。

 確かにこの部屋で過ごす事は出来ないだろう。壁紙は全部張り替えないといけないし、散らばっているものを片付けるのも時間が掛かりそうだ。


「あの……ルーファス兄様?」


 先程から相手にされていないアイリス様が、痺れをきらしたように声を掛ける。一歩を前に踏み出すも、その瞬間にアイリス様の足元に氷が撃ち込まれた。


「きゃあっ!」

「近付くな」

「そんな! こんなにも私はルーファス兄様の事が好きなのに! どうして私を選んで下さらないのですか! そんな人より、私の方がずっとずっと兄様の事を想っているのに!!」

「それには応えられないと言い続けている。俺の妻はサフィア以外にありえない」

「そんな……私はずっと、小さな時から兄様だけを……」

「断られても捨てられない想いがあるのも理解はする。だが、その想いは他者を傷付けてもいい理由にならない」


 アイリス様はその場に崩れ落ちた。

 彼女の姿が、一年前のわたしと重なる。


 ロータルから、他に好きな人がいると告げられて……もしかしたら、わたしもアイリス様と同じようになっていたのだろうか。

 好きだという気持ちがあるから、ロータルの想い人を傷付けてもいいと正当化して。彼に相応しいのは自分だと、そのお相手を傷付けていただろうか。


 わたしは、泣き暮れてしまってそれをしなかった。

 でも何かきっかけがあれば、盤面は簡単にひっくり返っていたかもしれない。


 だからといって、アイリス様に同情する事は出来ないけれど。


「ユリウス、兵を呼んでアイリス・デンドラムを拘束しろ。シビル・デンドラムも同様にだ」

「かしこまりました」


 ルーファスの言葉にアイリス様は茫然としている。

 指示を受けたユリウスがイヤーカフで衛兵を呼んだ。すぐに複数の足音が聞こえて、三人の衛兵が集まってくる。

 アイリス様が抵抗をしても、彼らは職務を遂行するだけだった。

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