第51話 思う子に口さすな
「あらあらまあまあ。いらっしゃい。暑いところわざわざどうも。沙智の母です。どうぞ、おかけになって。千尋さん、悪いんだけどお茶お願いできるかしら?」
リビングへ入ると先ほどまでの不機嫌が嘘のように沙智の母親は満面の笑みで哲を迎えた。どこかそわそわ落ち着かない手の動きでリビングのソファへ哲を誘導する。
「菅原哲です。突然お邪魔してすみません。失礼します」
若干緊張の面持ちを見せる哲が母親に丁寧に頭を下げると促されるままソファに腰掛ける。
「菅原さん、僕の嫁の千尋です」
お茶を持ってやってきた義妹を弟が紹介する。彼女に対して哲が座ったままお辞儀をすると、彼女も目礼を返す。
哲が今度は幼馴染に目を移すと幼馴染はにこやかに口を開いた。
「増田俊也です」
「こちらは沙智の妹の亜寿沙の旦那さんなの。妹の亜寿沙はちょっと体調がすぐれなくて休んでるんです。ごめんなさいね」
そこに母親が割って入ると、幼馴染は哲に目礼してまた静かに微笑んだ。
「庭で遊んでるのが私の甥っ子と姪っ子。妹の息子たちと弟の娘」
窓ガラス越しにこちらを見る子供たちを指さして哲にそう耳打ちすると、哲は「にぎやかだね」と子供たちの視線にたじろいだようにつぶやく。
「それで、菅原さん。沙智と同僚なんですって? ということはI商事? 部署も沙智と同じなのかしら?」
顔を紅潮させた母親が正面から身を乗り出すようにして哲を見る。その迫力に気圧されたように哲は少し身を引いた。
「営業です」
「まあ。営業って言ったら会社の花形でしょう。やっぱりお仕事も大変なんじゃないかしら? うちの人ね、今は総務なんですけど結婚したころは営業部で、忙しすぎて全然家にいなかったんですよ。まあうちの人はI商事みたいに大きな会社に勤めてないんですけどね」
おほほほ、と笑った母親に、父親は無関心だ。少し離れたダイニングテーブルに座ってお茶を飲んでいる。
母親はどうやら哲のことを気に入ったらしい。元彼を紹介したときよりもずいぶんと口の回る彼女を見て、ふと弟に目をやると彼は母親を横目に苦笑いをしていた。
そういえば弟の結婚の挨拶の時には義妹が母親にずいぶんと冷遇されたという話を聞いている。今でこそ表面上は上手くやっているものの、ノリノリで哲と談笑する母親に弟夫婦が思うところがあるのは仕方ないだろう。
母親にとって息子は恋人のようなものだなんて言うし、息子を取られる気がして悔しかったのかな。
思いながら麦茶に口をつけると、居住まいを正した母親が膝の上で組んだ手をもじもじさせた。
「それで、菅原さんと沙智はいつからお付き合いされてるの? この子ったらそういう話全然してくれないから知らなかったわ」
その期待に満ちた目に沙智は飲んでいた麦茶を吹き出しそうになる。幼馴染が寄こしてくれたティッシュで口元を覆いながら母親に目を向けたが、彼女は沙智の視線なんてお構いなしだ。
「結婚は考えていらっしゃるのかしら?」
いったい何考えてるのよ。
恐れていたことが目の前で現実に起こっているのに唖然としながら口をあんぐりと開く。
「この子ももうそんなに若くないし、親としてはこの子の幸せを願っているんだけど」
続けて言葉を紡いだ母親に、今度は沙智の中で大きないら立ちが募る。先ほどの会話がフラッシュバックして沙智は膝の上でこぶしを握った。
「菅原さんみたいな方にもらってもらえたら……」
「もうやめて」と母親の言葉を遮ろうとした瞬間、しかし予想外の方向から助け舟が出された。
「母さん、やめなさい」
声のした方向へ全員が一斉に視線を向ける。と、視線の先にはダイニングテーブルで夕刊を広げる父親。
「菅原さんは今日はお父さんが無理やり連れてきたんだよ。だから沙智のお客さんじゃなくてお父さんのお客さんだ。そんな話をしに来たんじゃないよ」
視線を新聞に向けたまま父親が言ったのに、母親が目に見えて憮然とする。
「それに沙智もただの同僚って言ってたし、付き合ってるわけじゃないんだろお? どっちにしろ親が出る幕じゃないよ」
飄々と言い切る父親に、母親は黙り込むと気まずそうに視線を落とした。
「あの……今はまだ、何も準備ができていない状態で」
一瞬落ちた沈黙の後、今まで黙っていた哲が母親と父親に交互に視線を向ける。
「僕が全部を中途半端にぐずぐずしているせいで、沙智さんには呆れられているかもしれないんですけど……」
ちらりと振り返った哲が、沙智と目を合わせて困ったように微笑む。
「でも、もしも沙智さんから良いお返事をもらえたら、また改めてご挨拶させてください」
もう一度父親と母親に目を向けた哲は穏やかに、しかしきっぱりとした口調で言い切った。
それって……。
目を見開いて隣に座る哲を見上げる。少しだけ目を伏せた哲が沙智の手をそっと握った。
ゆっくりと手に伝わる哲の体温に合わせて沙智の胸の奥もじんわりと温かくなっていくようだ。
「うん。そうかい。じゃあこの話はここでおしまいだな。母さん、そろそろご飯にしないかい? おなか減っちゃったよ」
父親が新聞をたたむと母親が立ち上がる。
ちらりとこちらに視線を寄こした母親の目が柔らかく微笑んだのに驚いて、沙智はキッチンへ向かう彼女の後姿を目で追った。
「菅原さん、将棋は指せる? ご飯できるまでどう?」
父親の誘いに哲が「ぜひ」と腰を上げた。
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