第48話 開いた扉が塞がらない

「沙智、あんたちょっと、こっち来てみなさい」


 子供たちとスイカを囲んでいると廊下から母親の声。


 手にしていたスイカを置いてリビングから顔だけ廊下に出すと、普段は物置にしているクローゼットから母親が同じように顔を出していた。


「なに?」


「いいから、こっち」


 不審に思いながら仕方なく母親に呼ばれるままに歩いていく。


「これ、いい色じゃない? やっぱり若い子にはこういう明るい色よねえ。顔が明るく見えるもの」


 言いながら彼女が沙智に合わせたのは明るい山吹色の着物だ。祖母の遺品としてもらい受けたと何度か見せられたことのあるその着物に沙智は目をぱちくりさせた。


「なに、どうしたの?」


 いい色ではあるが沙智の趣味ではないその着物を、母親は満足げに眺めている。


「冴島さんっているでしょ? ほら、前にいとこの澄香ちゃんと旦那さんのお見合いをセッティングした。あの方にね、沙智のこと話したら良い人紹介してくれるって」


 先ほどとは打って変わって上機嫌にそう言った母親に沙智は目をむいた。


「ちょっと待ってよ。私に何の相談もなしに勝手に話を進めないでよ」


 肺の中から空気が勝手に競りあがってくるような息苦しさを感じながら沙智は大声を出さないように顔をゆがめる。沙智の言葉に母親が眉を顰めた。


「一応あんたの確認取ろうと何度も電話したわよ? でも朝に電話した後、あんたの携帯全然繋がらなかったのよ。ずっと電波の届かないところにいますって」


 ああ、そうだ。昨夜も今朝も充電する暇がなくて母親との電話以降、スマホは電池切れだ。そのことを思い出して沙智は額に手をやった。


「とにかく断ってよ。今はお見合いなんてする気分じゃないの」


 今は、いや、もしかしたらこの先ずっと。


 語尾を強めたが、母親はまるでわがままを言う小さな子供を相手するかのように呆れた顔をした。


「でも恭平くんと別れたんでしょ? あんたが恭平くんと結婚すると思ってたからお母さんずっと何も言わなかったのよ?」


 その言葉に思わず母親の顔をまじまじと見る。


 今までも顔を合わせるたび、電話をするたび、母親は散々「早く恭平くんと結婚しろ」としつこいぐらいに言ってきていた。彼女にとってそれは黙っていたのと同義なのだろうか?


 呆れすぎて言葉も出ず沙智は天井を見上げた。


「あんた自分を何歳だと思ってるのよ? いい加減落ち着く年齢でしょ。これからどんどん出会いも少なくなっていくわよ。お母さんはね、あんたに幸せになってほしいの。結婚して、仕事辞めて、子供産んで、穏やかな家庭を築くの」


 まくし立てるようにそう言った母親に、沙智は今度こそ本当に頭が痛くなってくる。


「結婚が幸せだなんて誰が決めたのよ? 離婚してる人なんてごまんといるよ? 相手に浮気されたり自分の夢を諦めなきゃいけなかったり、結婚が唯一の幸せって考えは古いよ」


 妹の泣き顔、義妹の笑顔。いろんな顔が頭の中を通り過ぎる。


 どんなに結婚を望んでも、それが叶わない人たちもいる。


 脳裏に浮かぶ、哲の顔。


「私には私の幸せがあるの。勝手に私の幸せを決めつけないでよ」


 言いたいことは他にもある。けれどため息交じりにそれだけ吐き出すと、沙智は押し付けられていた着物を母親の手に返した。


「あんた、いつもそうよね……」


 母親が沙智をじっと見つめてから顔を俯かせた。山吹色の着物をゆっくりと撫でる彼女の目に薄く涙が溜まっていくのを見て、沙智はハッとする。


「お母さんが良かれと思ってやってることも何だかんだ理屈をつけて拒否するの。ほんとに、昔から……。素直に言うこと聞いたことなんてないんだもの」


 山吹色の着物を眺めている母親の顔がゆがんでいく。彼女が泣き出すのではないかと沙智がバツの悪い思いで目をそらそうとした時、母親はまっすぐ沙智の目を捉えた。


「そんな風に可愛げがないから俊ちゃんは亜寿沙に取られるし、恭平くんにだって逃げられるのよ」


 その口から出た言葉に腹の底がちりちりと熱くなり、自分の頬が痙攣するのを感じて沙智は息を吸い込んだ。


 感情的に叫ばないように口を一文字に引き結ぶ。気を抜いたら母親を怒鳴りつけてしまいそうだ。


 二人の間に落ちた沈黙に耐えられなくなったかのように母親が沙智から目をそらす。


「とにかく、もうすぐ冴島さんがいらっしゃるから。断るなら自分で断りなさい」


 それだけ言い残して山吹色の着物を抱えたまま母親が自分の部屋へと消えていく。


 その後姿を睨みつけ、沙智は口を固く閉ざしたままその場に立ち尽くす。


 ああ、だめだ。本当にだめだ。


 本当に母親とはそりが合わない。根本的な性格がおそらく似すぎているのだ。気が強くて可愛げがない。


 それでも昔は母親に気に入られようと彼女の言う可愛げのある娘を演じてみたこともあった。けれど母親が可愛がるのは素直な弟や甘え上手な妹ばかり。


 結局自分は母親にさえ必要とされていない。


 母親の言う通り、密かに恋心を抱いていた幼馴染も長年付き合っていた彼氏も可愛げのある女の子たちに取られてしまうのだ。


 心底自分の性格にも母親の言動にも嫌気がさし沙智は苦い顔のまま開けっ放しのクローゼットを閉める。


 こんなだから……、こんなだから哲もきっと……。


 握ったこぶしをどこかに打ち付けたい衝動に駆られながら、とぼとぼとリビングへ向かって歩く。


 今は弟夫婦の顔も幼馴染の顔も甥っ子姪っ子の顔も見たくない。


 そのままリビングの前を通り過ぎて玄関に揃えられた靴に足を入れる。ドアを開けようとしたその時、けたたましいチャイム音が家中に響き渡った。


 もう冴島さん来ちゃったんだ……。


 タイミングの悪さにうんざりした思いでのろのろとドアを開ける。


 どう断ろうか文章を考えながら視線を上げて、沙智はその場でフリーズした。


「さ、とし……?」


 くしゃくしゃのくたびれたTシャツにジーンズ姿の哲が目の前で沙智を見下ろしている。髭ものびっぱなし、髪もろくにセットしていない彼は肩で一つ息をした後、ゆっくりと上体を傾けて沙智を抱きしめた。


 どうしてここに?


 その疑問に答えるかのように哲が沙智の耳元で「迎えに来たよ」と囁く。


 なんでこの人はこんなにタイミングが良いんだろう。


 自分が抜けられない深みにはまっていくのを感じながら、沙智は瞳から大粒の涙をこぼした。

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