第47話 一寸先は灰
不調な妹を説得し、上階の寝室まで連れて行くと沙智は何事もなかったかのようにリビングへ戻った。
「亜寿沙は?」
弟がすぐに尋ねてきたのに「上で休むって」と一言。
「あ、俊ちゃん。亜寿沙一人でいたいって。調子悪すぎて八つ当たりしちゃうからそっとしといてほしいって」
すぐに様子を見に部屋を出ようとした幼馴染に慌てて声をかけると、彼は少し思案顔になってから静かにうなずいた。
こんなに奥さん思いの優しい人が浮気なんてするんだろうか。
ふとよぎった疑問を、しかしすぐに打ち消す。自分の元彼も「優しい」に分類されるタイプだったのを思い出したのだ。
私って男を見る目がないなあ。
自嘲気味に笑っていると、玄関からがちゃがちゃと物音が聞こえた。
「ただいまー。あーあっつい。ちょっと、泰久、荷物ー!」
聞こえてきた母親の声に弟と幼馴染が一斉に動き出す。
「もう、なんか毎年毎年夏がどんどん暑くなってるわね。やんなっちゃう。あら? 沙智はもう帰ってきたの? お父さんは? まだ? 亜寿沙の調子どうかしらー? あ、千尋さん、これ冷蔵庫に入れて。子供たちにもスイカ切ってやんなさい」
相変わらず一人なのにまるで三人ぐらいいるような勢いで喋りまくる母親に頭が痛くなりそうだ。
「ただいま」
沙智がリビングから顔を出すと、母親の横に立つ義妹が沙智にぺこりと一礼した。母親は沙智の顔を見るなり突如として不満そうに口をへの字に曲げる。
「ずいぶん遅かったのね。本当はあんたが帰ってきてから一緒に買い物行こうと思ってたのに。もう昔っからのろのろしてるんだから」
「あのね、うちからここまでどれだけかかると思ってるのよ。無茶言わないでよ」
これでも母親との電話後すぐに最低限の準備で出発したのだ。これ以上早く来いなど車がない限りとうてい無理だ。
「知らないわよ。今あんたがどこに住んでるかも知らないのに。別れたってことは恭平くんの家は出たの?」
聞かれて、ああ、そうかと納得してしまう。そういえば引っ越したことも告げていなかったのだ。
「出たよ」
ぶっきらぼうにそう答えると、母親はこれ見よがしにため息をついた。
「何が原因か知らないけど、あれだけ長いことあんたみたいのに付き合ってくれてた人と別れるなんて、何考えてるのよ、まったく……」
ぶつぶつ言いながら靴を脱ぐ母親を置いて弟と幼馴染は黙ったまま荷物をキッチンへと運んでいく。
「こっちにだっていろいろ事情があるの。お母さんには関係ない」
ぴしゃりと言い放つと母親はますますムッとした顔をする。気まずそうに残りの荷物を義妹がさらってリビングの方へと消えていった。
「まったく、昔からああ言えばこう言うんだから……」
母親は不機嫌顔のまま沙智の横を通り過ぎると義妹の後を追うようにリビングへと入っていく。その後ろ姿を見送って、沙智はがしがしと頭をかいた。
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「千尋さん、ごめんなさいね。帰ってきていきなりあんな見苦しいところ」
姑と小姑の諍いなど嫁にとっては厄介以外の何物でもない。いつも以上に余計な気を使わせてしまうだけだ。
久しぶりの再会だというのに恥ずかしいところを見せてしまった。沙智がキッチンでスイカを切る義妹に申し訳ない気持ちでそう声をかけると彼女はのほほんと笑った。
「私もよく母と口論になるんです。やっぱり家族は一番近くて気心が知れている分、優しくするのが難しい時ってありますよね」
弟のお嫁さんとはいえ沙智より何歳か年上の彼女は弟の手綱をしっかりと握る姉さん女房だ。
どちらかといえばおっとりした見た目なのだが、もともと大手銀行の総合職で女性ながらにバリバリのエリートコースに乗っていた人物だ。出産を機に主婦業に専念するようになったとはいえ、その頭の回転の速さはさすがと思わされることが多々ある。
沙智たち家族に対しても控えめに、しかし時にはっきりと意見する芯の強さがあり、そのせいで沙智の母親は彼女に少し苦手意識を持っているようだ。逆に沙智は彼女のことを好ましく思っていた。
だからあまり格好悪いところは見せたくないのだが、母親と一緒になるとどうしてもいつも揉めている場面を見られてしまう。
トントンとリズムよくスイカを切っていく彼女の手元を横目で眺める。
結婚当初は「仕事一辺倒すぎて包丁さばきも危うい。だから料理は俺担当」と弟が言っていたのを覚えている。今の彼女はすっかり不得意だった包丁さばきも板についているようだ。
自分のキャリアを手放して専業主婦になり、不得意だったことを会得してまで家庭を守る。彼女はその人生に後悔はないのだろうか。
「どうかしましたか?」
唐突に尋ねられ、ハッと我に返る。
大きなはてなマークを顔に張り付けて首をかしげている義妹に苦笑すると、沙智は「別に……」と言いかけて一度口をつぐんだ。
「千尋さんは今までの人生に後悔とかないですか?」
自分が口にした質問に、沙智はなんだそりゃ、と内心で突っ込みを入れた。いきなりこんなざっくりした質問をされても困るだけだ。
失敗した、と思いながらおずおずと彼女を見ると彼女は真剣な眼差しで手元を見つめてから「そうですね」と口角を上げた。
「私、実は泰久くんとお付き合いする前にすごく大好きだった彼氏と結婚観の違いで別れたんです。私は結婚しても自分のキャリアを絶対手放したくなくて、でも彼は結婚したら私に家庭に入ってもらいたい人だった。そこがどうしても折り合いがつかなくて……」
タン、と彼女がスイカの端の皮を切り落とす。
「結局別れることになったけど、すっごく引きずったんです。彼のことがどうしても忘れられなくて。そんな時に泰久くんが『自分は結婚しても千尋さんのキャリアを応援します』って、ほぼプロポーズに近い告白してくれて」
その時のことを思い出すように微笑んだ彼女は最後のスイカを切り終わるとまな板の上に包丁を置いた。
「でもあんなに意地になっても守ろうとしてたキャリアも結局出産を機に手放してる自分を見て、あの時意地にならずにあの人と結婚して家庭に入ってたらどうなってたかな、と考えるときはたまにあります」
これ、内緒ですよ? と茶目っ気たっぷりに笑った彼女がシンクでまな板と包丁を洗いだす。
「でも泰久くんとの結婚を後悔したことはないです。きっとあの人と結婚して家庭に入ってたとしても、今ほど穏やかな気持ちで主婦はできてなかったと思うんです。無理やりキャリアを諦めさせられたって意識が強く働いちゃって。泰久くんは、全部最後まで私に選択させてくれました。だから……」
私は幸せです、と笑った彼女の顔がまぶしい。
傷つき痛みながらも、自分にはこの道しかないと泣いていた妹の顔が脳裏をよぎる。
幼馴染との純愛を貫いた先に待っていたのはハッピーエンドではなく辛い現実。
譲れないもののために大好きだったものを手放すという選択を迫られた先に待っていた穏やかな生活。
私はこれから何を選び何を捨ててどういう人生を歩んでいくのだろう。
すでに自分が選び、捨ててしまったものに思いを馳せながら沙智はスイカの乗った皿を持ち上げた。
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