第46話 実家から火を出す
玄関から一つ目のドア、時に客間にもなるリビングへと入ると待っていたのは懐かしくも見慣れた顔と、記憶よりもだいぶ育った甥っ子姪っ子たち。
「沙智ねえ、おかえりー。ほら、さっちゃん来たぞー」
沙智を見て一番最初に声を上げたのは、リビングからつながる庭の軒先に座る沙智の弟。
庭で水遊びをしている甥っ子姪っ子がその声に反応して物珍しそうにこちらを覗き込む。
「ただいま。あっついね」
荷物を下ろして軒先へ近づくと、姪っ子が彼女の父親である沙智の弟の陰に隠れた。
「やっちゃん、久しぶり。しばらく見ない間にずいぶんお姉さんになってるねえ」
姪っ子の顔を覗き込んでみるが、彼女はますます顔を隠すように弟に体をひっつけるだけだ。
「ほら、さっちゃんにこんにちはーって」
弟が父親の顔で言うが、彼女は頑なに顔を上げない。
「ごめん。最近人見知りに拍車がかかっちゃって」
今年四歳になる彼女は、社交的な沙智の弟には似ずにずいぶんと恥ずかしがり屋だ。
「しんちゃんも、こんにちは」
庭で立ち尽くして沙智をぼーっと見上げている二番目の甥っ子に声をかけると、彼は表情を変えずにこくんとうなずいた。
妹の次男である彼は前回会った時も表情の変化が乏しかったが、それは相変わらずらしい。
「しんー! これ、水鉄砲な!」
一番目の甥っ子が庭に走り出たのを皮切りに、子供たちがまた活発に動き出す。
「今日はみんな大集合なのね。何かあるの?」
庭を走り回る三人を眺めながら弟に尋ねると、弟が呆れたように肩をすくめた。
「沙智ねえが帰ってくるからお前らも来いって、急におふくろに呼び出されたんだよ。亜寿沙も帰省してるし、久しぶりに家族で飯だって」
なんか張り切ってるんだよな、とぼやくように弟が言った後、リビングからか細い声で「沙智ねえ」という声が聞こえた。
「亜寿沙? ただいま。三人目だって? おめでとう……。大丈夫?」
リビングのソファに横になっていた妹が、いかにも青い顔でひらひらと手を振る。
「んー、死んでるー」
少しだけ上半身を起き上がらせていた彼女が、またソファの上にうつぶせる。
「お母さんも何もこんな時に家族集合させることないのにね」
近づいて妹の背をさすってやると、彼女は乾いた声で笑った。
「沙智ねえに会えるのが嬉しいんだよ。お母さんの自慢はいつでもいい大学出て大企業にお勤めする沙智ねえだもん」
言われて言葉を詰まらせる。
そんなこと、ない。
口を開けば「早く結婚しろ」、「女が勤めて何になる」、「結婚が一番の幸せだ」が口癖の母親だ。彼女の理想の娘はむしろ早くに結婚して出産し、家庭を守る妹のほうだ。
複雑な思いでぐったりする妹を見ていると、横から彼女の旦那である幼馴染が彼女の頭を優しく撫でた。
「あず、何か飲む? 麦茶でも持ってこようか?」
「……ううん、いい」
妹はその優しさにぶっきらぼうに答えると、ぷい、とそっぽを向くように寝返りを打つ。
その様子に思わず幼馴染と目を見合わせると、弟がまた肩をすくめるのが視界の隅に入った。
「そういえば千尋さんは来てないの? というか私を呼び出した張本人のお母さんは? お父さんも」
いつもなら率先して出てきてお茶だ、お菓子だと出してくれる母親の姿が見当たらない。週末には隅で縮こまって新聞を読んでいるのがデフォルトの父親もいないのは珍しい。
「千尋とおふくろは夕飯の買い出し。おやじはゴルフだってさ」
「夕飯の買い出しぐらい手伝いに行きなさいよ」
悠々と家に残っている男性陣に呆れた声を出すと、弟が「おふくろが手伝いはいらないって言うからさ」と言い訳がましく唇を突き出す。
さすが家事は女の仕事、が信条の母親だ。呆れて物も言えずにいると妹がふらふらと立ち上がった。
「トイレ……」
先ほどよりも青い顔でつぶやいた彼女を、その旦那が支えようとしたとき彼女は彼の手を振り払った。
「いい。いらない」
弱々しくもはっきりそう言い放った彼女がリビングを出ていく。
「なんかずーっと機嫌悪いんだよ。相変わらずの我がまま末っ子」
彼女を見送った後で弟が呆れ気味にそうつぶやく。幼馴染も困ったような笑顔で沙智を見た。
「……まあ体調が悪い時って人への気遣いできないし。俊ちゃんは旦那さんだから、ああやって甘えてるってことじゃないかな?」
取り繕うようにそう言ってキッチンへ移動する。コップに水を注ぐと沙智は妹の後を追った。
「亜寿沙? お水持ってきたけど……」
扉が開けっ放しのトイレの前で遠慮がちに声をかける。妹がくぐもった声で「ありがと」と答えたのに顔をのぞかせると、彼女はやつれた表情で沙智を振り返った。
「しんどいなら上の寝室で休んどく? 子供たちは私と泰久で見とくからさ」
沙智からコップを受け取った妹は、一口水を含むとゆるゆると首を振った。
「上で休んでると俊ちゃんが見に来るから……。今は俊ちゃんと二人きりになりたくない」
その言葉に驚きで目を丸くする。
「……喧嘩中?」
リビングの方にちらりと目をやってから声を潜めて尋ねると、妹は一層暗い顔でまた首を振った。
トイレの洗面台に手をかけたまま妹がこぶしを握る。
「俊ちゃん、たぶん浮気してる」
その言葉にガツンと殴られたような衝撃を受け、沙智は口を半開きにした。
「そ……う、なの?」
間抜けに答えて、あとは口をぱくぱくさせる。妹の目にみるみる涙が溜まっていくのをただ突っ立って見守る。
「前にも、たぶん一回。雅也を妊娠してた時期……。だから私の勘が正しければこれで二回目」
「まさくんを妊娠してた時期って……」
結婚してすぐじゃない、という言葉を飲み込む。
一人目の妊娠が発覚してから結婚することになった二人は、結婚前からずっとラブラブだったという記憶しかない。昔から優しくて真面目な彼と、少しわがままだけど愛嬌のある可愛い妹。どこからどう見てもお似合いのカップル。
結婚式のときに見た二人の幸せそうな笑顔が沙智の脳裏をよぎる。
「俊ちゃんに、確認は……?」
躊躇いながらもそう尋ねると、妹はまたゆっくりと首を振った。
もしかしたら妹の思い過ごしかもしれない。思いつめすぎて疑念が疑念を呼び、不調も手伝ってそう思い込んでいるだけかもしれない。
そうは思うものの、それ以上に妹の受けた傷がどれほどのものか沙智には痛いほどよくわかる。
いや、二人の息子を持ち、三人目を妊娠中の彼女の不安や痛みは沙智が経験してきた以上のものだろう。
「どう、したい……? 何か私にできることはある?」
相手を問い詰めることも、浮気の確証を得るための行動を起こすことも、絶不調な今の妹には難しいだろう。
彼女が望むのであれば自分が動くこともできる。そんな思いで聞いてみたが、しかし彼女はただ静かにうなだれた。
「いい。大丈夫。我慢できる」
「我慢って……」
そんな、と思わずつぶやくと妹は涙目のまま沙智をまっすぐに見た。
「私は沙智ねえみたいに頭も良くないし、ちゃんと会社にお勤めしたこともない。今もし俊ちゃんに捨てられたら、三人の子供抱えて生きていくなんて現実的に考えられないよ」
強く握りすぎて白くなった彼女の手がぶるぶると震える。
それを見つめて何も言い返せず、沙智はただ茫然とその場にたたずむ。
「ママー! おしっこー!」
リビングから顔を出した甥っ子の叫び声が廊下に響き渡った。
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