第11話 人間万事翁が車
ドアをノックするような軽快な音に沙智は目を覚ました。
瞼を開けようとした途端に鋭い日の光が目をさし、思わず手で顔を覆う。
ゆっくりと顔を覆った手をどけながら同時に鼻腔をくすぐる芳ばしい香りに鼻が動き、沙智はやっと意識が浮上してくるのを感じた。
上半身を起こすと背中と首がぎしりと悲鳴をあげる。声を出さずに唸り、ゆっくりと動いて首を左右に伸ばす。
ついでに体にかかっていたブランケットをはぎ取ると体に纏わりついていた蒸した空気が軽やかに霧散する。
「おはよう。そのソファでよく眠れた?」
突然耳に届いた声に体をひねると、すでにワイシャツ姿の同僚がキッチンに立っている。
そうか。リビングで寝てしまったのか。
まだギシギシ言う体に鞭打って立ち上がる。
「おはよう。体痛い」
「そりゃそうだ」
彼が呆れたように笑った。
「準備してきなよ。もうすぐご飯用意できるから」
言われて先ほどから漂ってくるのが焼魚の匂いだと気づく。それにほんのり味噌の香り。
「和食?」
キッチンに近づくと彼が慣れた手つきでネギを刻んでいるのが見えた。さっきのノック音の正体は包丁かと納得する。
「うん。たまに食べたくならない?」
なるけど、朝から作ろうとは思わない。その心の声を押し殺してただうなずく。
「いつも朝食まで用意してくれてありがとう。菅原くん忙しいのに……」
泊めてもらっているだけでも十分以上なのに、と申し訳なく思いながら言うと彼は肩をすくめた。
「一人分も二人分も一緒だし。俺にとっても都合がいいから」
その言葉に首をひねると彼に「ほら早く支度」と急かされた。言われるままにリビングを出る。
すっぴんを会社の人に見せるなんて数日前まで考えられなかったのに。
洗面所の鏡に映った寝ぼけ眼の自分の顔を見てそんなことを考えながら水道の蛇口をひねる。冷たい水ですっきり目を覚ましてから沙智は仕事行きの顔へと変身を始めた。
準備をばっちり整えてからリビングに戻るとダイニングテーブルの前でスマホをいじる彼。沙智が席に着くと彼もスマホを脇に置いて二人で手を合わせる。
「味噌汁の味どう? ちょっと薄すぎたかな」
「美味しいよ。私はこのぐらいが好み」
お椀を片手に言うと彼が「わかった。覚えとく」と一言。
そんなの覚えても仕方ないのに。
まるで同棲を始めたばかりの彼氏彼女でもあるかのような会話。
苦笑したところで沙智のスマホがメッセージの着信を告げた。一言断りを入れてから確認すると、画面には友人の名前。内容を確認して沙智が眉を八の字にすると彼が怪訝な顔をした。
「明日友達に車借りる予定だったんだけどそれが駄目になっちゃって」
彼の視線に答えるように説明する。
「車? 何か必要なの?」
聞かれて詰まり、なんとなく目をそらす。
「うん。元彼のとこに荷物取りに行こうと思って。土曜だし……」
本当はまだ顔も見たくないのだが、捨てるには惜しいものも残っている。それにずるずる時間を置けば取りに行くのがますます億劫になるのも目に見えている。
「レンタカーって前日でも借りられたっけ?」
歪みそうになる顔を誤魔化しながらスマホのwebブラウザを起動させる。
「俺持ってるよ」
正面から飛んできた言葉に沙智は「え?」と顔を上げた。するとニヤリといたずらっぽく笑う彼と目が合う。
「車。ちなみに明日は使う予定なし」
そう言ってご飯を一口頬張った彼はこちらの出方を待つように沙智を見つめている。
「えっと、貸してもらえないかな? お願いします」
ぺこりと頭を下げると彼が今度は得意げに笑った。
「よかろう」
「ありがとうございます。助かります」
安堵に息を吐いて沙智がスマホを横に置くと、彼が思案顔で「それにしても」と続けた。
「石田さんって運転できたんだ?」
言われて彼をにらみつける。
「もしかして私、今馬鹿にされてる?」
「なんでだよ。ただの感想じゃん。ほら、また被害妄想癖出てるぞ」
同じように睨み返してきた彼に不満顔のまま「癖じゃないし」と小さく言い返す。彼はまた笑うと何かを思い出したように口を丸くした。
「そういえば昨日の話だけどさ、石田さんの後輩の話。後輩と上手くいってないみたいなこと言ってたやつ」
言われて一気に気分が下がる。これから出勤だというのに嫌なことを思い出させないでほしい。何があっても何でもない顔をしていつも通り出勤しなければいけないのだ。せめて業務時間外は忘れていたい。
「少なくとも一人には慕われてるよね」
その言葉に欝々した気分のまま彼を見つめる。
「ほら、確か隣の席の南さん?」
その名前を聞いてずきりと胸が痛む。
「……なんでそう思うの?」
きっと彼女は七年も付き合っていた彼氏に振られた沙智を裏であざ笑っているのに。
「石田さんのことすごくお世話になってる尊敬する先輩だって言ってたから」
一瞬言われたことを理解できず、沙智の中でいろいろな思いが巡りまわる。
「いつ話したの? 南さんと」
彼女のことだ。彼と話す機会などあれば興奮して沙智にすぐに報告に来るだろうに。
「昨日の昼前? ほら、ちょうど石田さんが営業部に書類届けに来てくれたとき俺と行き違いになったじゃん。あのとき自販機の前で会ったんだよ。石田さんの隣に座ってたの覚えてたからちょっと挨拶がてら世間話をね」
言われて彼女の無邪気な顔が思い浮かぶ。
沙智が席に戻った直後に屈託なく笑いながら戻ってきた彼女の手の中にあった缶コーヒー。
給湯室にいたと思ったのに、沙智のために買ってきたという缶コーヒーはきんきんに冷えていた。
あれ。もしかして、あの子あのとき給湯室にいなかったのかな?
もやもやしていた心の中の霧に薄く一筋の光が差し込んだような感覚。
「すごい勢いで石田さんのこと褒めちぎってたからさ。あの子よっぽど石田さんのこと好きなんだね」
そして何かを思い出したように彼がおかしそうに笑う。
その顔を見ながら、沙智も薄く口の端を上げた。
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