第12話 腹が空く

「沙智さん、一緒にお昼どうですか?」


 昼休憩のために席を立つ社員が少しずつ目につき始めたころ、隣の席の後輩がサーモンピンクの財布を両手で掲げて話しかけてきた。


 ちらりと時計を見やって午後の会議までの時間をはかる。


「そうね。……でもいいの? 芦谷さんたちと一緒じゃなくて」


 言いながら、部屋の隅で固まって話している女子社員の集団に目をやる。その中の一人と目が合い、沙智は慌てて彼女たちから視線をそらした。


「大丈夫です。沙智さんとお昼したいですし」


 一瞬だけ冷めた様子を見せた後、ふんわり笑った彼女に沙智もあいまいにうなずいて、鞄の中から財布とスマホを取り出す。


 席を立つと部屋の隅から感じる視線に気づかないふりをしたまま後輩と二人で部屋を出た。


「何食べたい?」


 やっと人心地ついて隣を歩く後輩に尋ねると、彼女は綺麗に彩った指先でトントンと軽く頬をつつきながら「うーん」と唸った。


「私はがっつり系の気分なんですけど、沙智さんはどうですか?」


「じゃあ坂下亭は? あそこなら色々あるし」


 正直そんなにお腹は空いていなかったのでお昼を抜こうかと考えていたのだが、早いうまい安いで評判の近くの定食屋のサバ味噌煮定食を思い出したら途端に沙智の胃も活発に動き出した。


「坂下亭! いいですね。とんかつ定食にしようっと」


 ご機嫌にそう言った後輩と上階から降りてきたエレベーターへ乗り込む。


 おしゃべりしながらビルから出るとむわっと蒸す空気に包まれ、沙智は思わずげんなりした。これから数か月、更に暑くなることを考えると今すぐにでも避暑地に逃げ込みたい気分だ。


 吹き出す汗に不快感をいだきつつ、二人で足早に近くの定食屋まで歩くこと数分。


 古びた暖簾を潜って冷房の効いた店内へ。明るい店員に迎えられ席に案内されると沙智は額を流れそうになる汗をハンカチで拭った。


 向かいに座った後輩は化粧崩れ一つない涼しい顔で出されたメニューを覗き込んでいる。


 若さってやっぱり武器だわ。


 彼女といると普段は気にしていないつもりの自分の年齢が気になる。 


「やっぱりとんかつ定食かな。沙智さんは何にします?」


 聞かれてとっさに「サバ味噌」と答える。


 お冷を持ってきた店員に素早く注文すると、目の前の彼女は水で口を少し湿らせてから居住まいを正した。


「沙智さん、実は沙智さんに謝らないといけないことがあるんです」


 急に硬い表情で告げられ、沙智の胸が一瞬跳ねた。


「なに? そんなに改まって」


 何でもないふりをしながらお冷を口に運ぶ。思い当たるとしたら昨日の件だ。


「この前、沙智さんと駅で会った時に彼氏さんと喧嘩したって言ってたじゃないですか」


 ただの喧嘩じゃなくて浮気された上に別れたんだけどね。心の中で自嘲しながら先を促すようにうなずく。


「あの時、近くに佐々中さんがいてあたしたちの会話を聞いてたらしくて……。後から沙智さんと彼氏さんのこと聞かれたんですよ」


 「佐々中さん」は経理部の中でも派手な後輩だ。おそらく昨日、給湯室で沙智のことを噂していた中にいただろう一人でもある。


「とっさだったから上手くごまかせなくて、そしたら経理部の女子社員の間で沙智さんが彼氏さんと別れたっていう噂が広まっちゃったみたいで……」


 眉を八の字にしてうつむき気味にそこまで話した彼女は、「ごめんなさい!」と勢いよく沙智に頭を下げた。


「駅であたしが不用意に彼氏さんとの話題出しちゃったから……。本当にごめんなさい」


 そう言ってしばらく頭を下げ続ける彼女の頭頂部を見つめる。


 普段から念入りに手入れされた彼女の茶髪は今日もつやつやで羨ましいぐらいだが、その生え際がよく見るとほんの少しだけ黒くなっている。


 それを見つけて沙智は思わず微笑み、そして彼女のつむじを軽く押した。


「生え際、黒くなり始めてるよ。いつもすぐに染め直してるのに珍しいね」


 予想外の沙智の反応に驚いたのだろう。彼女は顔を上げるときょとんとした顔で自分の頭の天辺を押さえた。


「最近ちょっと美容院に行く時間がなくて……」


 おどおどしたままそう言い訳する彼女にまた微笑むと、沙智はテーブルに備え付けの割りばしを二膳とって一つを彼女に手渡した。


 素直にそれを受け取った彼女はまだ何が起こっているのかわからない様子で「ありがとうございます」と小さくつぶやく。


「いいよ、本当のことなんだし。どうせ隠してたってその内ばれることだしね」


 さすがに昨日のように悪意満々で噂されるのはごめんだが、それでも目の前の後輩がそれに加担していなかったと確信できた今、沙智はむしろ晴れやかな気持ちになっていた。


 同時にそんな些細なことでも謝ってくれる素直でまっすぐな後輩が可愛く見える。


「こちらサバ味噌定食ととんかつ定食でーす」


 明るい声で割って入ってきた店員が二人の目の前に少々乱雑にお膳を置く。途端に味噌の芳ばしい香りが沙智の鼻をつく。


「さ、食べよう。お昼終わったらS社の件でミーティングあるし、気合入れなきゃ」


 割りばしを割って彼女を見ると、不安そうにしていた顔をすぐに切り替えて彼女が笑顔で「はい!」と元気よく答えた。

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