第13話 咄咄食事

 終業時間をすぎてしばらく経ってから沙智のスマホが低く短いバイブ音を鳴らした。


 メッセージは今お世話になっている同居人から。内容を確認して素早く返信すると沙智は目の前のパソコンをシャットダウンした。


「もう今日は出るね。お疲れ様」


 隣の後輩に挨拶して席を立つ。部屋を出るときに「お先に失礼します」と部内に声をかけると、金曜夜で閑散とした部内からまばらな「お疲れ様です」という声が返ってくる。


 会社を出て事前に調べておいた不動産屋へ寄り、コンビニにも足を運んで朝出たきりのマンションへ。


 週末の始まりに街はどこもなんだか浮き足立っている様子で、逆にこの時間帯に働いている人たちの顔はどこか浮かない。


 マンションのエントランスで部屋番号と呼び鈴ボタンを押す。しばらくすると機械の向こうから「おかえり」とくぐもった声が聞こえた。


「ただいま」


 何日かお世話になっているけど、こんな形で挨拶をするのは初めてだ。なんだかこそばゆく感じながら開かれたエントランスのドアの内側に滑り込む。


「言われた通りてきとうにお酒買って来たけど」


 スウェット姿で玄関まで迎えに出てくれた彼に、手の中のビニール袋を肩の高さまで持ち上げると「ご苦労さん」の一言。そのまま袋を受け取った彼は中を確認しながらリビングへと歩いて行く。


「金曜夜に飲み会ないなんて珍しいね」


 営業部など金曜夜が一番接待やらで忙しいはずだし、なければないで彼なら飲みの誘いもひっきりなしだろうに。


「予定してた接待が諸事情で潰れたんだ。だから久しぶりに家でゆっくり。飯食った?」


 聞かれて靴を脱ぎながら「まだー」と首を振る。


「着替えたらリビング来なよ。つまめる程度のものしかないけど」


「ありがとう。いただくね」


 言われた通りに着替えてすっかり化粧も落としてからリビングへ行くと、彼がソファ前のテーブルに二人分の晩酌の準備を整えていた。


「石田さんも飲む? ビールか冷酒かワインか……。飲まないならコーヒーかお茶でも飲みたいもの淹れるけど」


「んー、ビールもらおうかな」


 答えると彼は「そうこなくっちゃ」と笑いながらキッチンへ戻る。


 昨日と同じ位置に座ろうとして、沙智はふと我に返った。


 よく考えたらこの家に来てから食事関係は全て彼に任せっきりだ。あまりに自然に動いてくれるのですっかり甘えていたが、なんだか人としてダメになっている気がする。


「菅原くん、いつも用意してもらってごめん。自分の分は自分でやるよ。もしキッチン入られるの嫌じゃなければ……」


 慌ててキッチンへ行くと、しかし彼は「ついでだからいいって」と軽く手を振った。


「でも悪いよ。ただでさえ置いてもらってるのに」


「まあ、あれだな。これは俺から失恋したばっかの石田さんへの慰め期間だと思ってもらえれば。その代わり一週間経ったらこんなサービスはなし」


 冷えたビールとグラスを手渡され、さっさと戻れとキッチンの外へと追いやられる。


 一週間経った頃にはもうこの家にはいないけど……。


 ソファへとぼとぼ戻りつつ部屋の隅を睨みながら首を傾げる。


「ではでは。今週もお疲れ様でした」


 彼の乾杯の音頭とともに昨夜と同じようにグラスを交わす。一気にゴクゴクと飲み干してから息をつくと、彼が「いい飲みっぷり」と含んだ笑顔で言ってきた。


「一杯目の飲みっぷりについては禅ちゃんにも褒められたわ」


 言いながらお箸で目の前の冷奴をつつく。


「なんかいいことあった?」


 尋ねられ、彼の顔をまじまじと見る。


「なんで?」


 尋ね返すと思いがけず彼の優しい笑み。


「いや、昨日と表情が全然違うから。なんかあったのかなって」


 よく見てるのね。彼の言葉に驚いて、驚いた自分にも笑ってしまう。


「うん。あった。いいこと」


 そういえば、きっかけをくれたのは彼だった。そう思い至って沙智からまた笑みがこぼれる。


 今朝、彼が後輩の話をしてくれなかったら、きっと沙智は今日のお昼を彼女と一緒にしようだなんて思わなかった。だから今日のいいことは半分は彼のおかげだ。


「ありがとう」


 そう言って今度は彼に微笑むと、彼はきょとんとした顔で「どういたしまして?」と反射的に答える。


 彼の何か問いたげな顔を無視してそのまま冷奴を口に運ぶ。


「美味しい。なにこれー。私が作るのと全然違う。なんで?」


 ただの豆腐なのに、とつぶやくと彼が吹き出した。


「ちょっと工夫しただけだよ。そんなに感激してもらえるんだ。作りがいあるな」


「いや、だってこれすごい美味しいよ。半端ないね、料理男子。昔から家事とかやる人だったの?」


 広いマンションだというのに綺麗に掃除も行き届いているし、男の一人暮らしのわりに食生活だって沙智よりもしっかりしている。家での躾が相当良かったとしか思えない。


「まあ親が共働きで妹もいたし実家では手伝いみたいなことはしてたけど、そこまでではなかったかな。一人暮らし始めてしばらくは適当な暮らしだったし。……料理とかに凝りだしたのはここに越してきてから」


 彼が苦そうにビールを一口含んだのを見て思わず目をそらす。


「妹いるんだ?」


 目の前の小鉢に手を伸ばす。ひとつまみを口に持っていくと、こく旨なしょうゆ味が口に広がる。


「うん。あと兄が一人。次男で気楽な真ん中ってやつ」


 軽くおどけたような彼にわざとらしく笑って「それっぽいかも」とつぶやく。


「石田さんは? 兄弟いないの?」


「弟と妹が一人ずつ」


 長らく会ってないけど。頭の中でそう付け足して沙智は目の前のワインボトルに手を伸ばす。


「ああ、石田さんお姉ちゃんっぽいよね」


 沙智の手の中からボトルを取り上げてワイングラスに中身を注ぐ彼の所作は自然だ。


「そう? よく言われるけど弟たちにも姉っぽいことなんて全然してないし、自分ではそんなつもりもないんだけどね」


 特に仲が悪いわけではないが、実家に寄り付かない沙智と弟妹たちとの距離は自然に広がってしまっている。


「でも醸し出す雰囲気というか……しっかりしてるとことか?」


 言葉を選ぶように言った彼の顔をちらりと見やる。数日前に言われた「可愛げがない」という言葉が沙智の脳裏をかすめた。


「変な意味ないから。被害妄想癖出すなよ」


 何かを察したように鋭く言われ、思わず彼をひと睨み。


「だから癖じゃないって」


 イラついた口調で発してワインを勢いよく呷ったらその勢いに押されてワインが口の端からこぼれ落ちた。


「ああ、もう。子供かよ」


 言って彼がソファから立ち上がるとすぐにナプキンを手に戻ってくる。


「お手数をおかけして申し訳ございません。ありがたく使わせていただきます」


 受け取りながら言うと「業務連絡か」と短い突っ込みが入った。


「あ、そういえば明日何時に出る?」


 口元をナプキンで拭いていると、それを見ていた彼が思いついたように尋ねてきた。


「午前中に行っちゃおうかなって思ってるんだけど、いいかな?」


 もし車を使う予定ができたならそれにも合わせられる、という意味合いでそう答えると彼は「おっけー」と軽くうなずいた。


「あの駅の近くだったよな? 車で行ったら片道二十分くらいだろ? 荷物どれぐらいある? 一回で行って帰ってこれる量なら帰りにどっかランチでも……」


「え! いやいや待って。菅原くんも来るつもりなの?」


 さも当たり前のように話を進める彼につい声が大きくなる。


「うん。行くよ。俺の車だし。ぶつけられたら嫌だし」


「いや、そうかもしれないけど……」


 それにしたってこんなことにまで付き合わせるのは、とてもじゃないけど申し訳なさすぎる。


「一応車の一日保険なら今日入ってきたから万が一があっても大丈夫だけど」


 色々と頭で思い巡らせながらそう言うと、しかし彼は呆れたように肩をすくめた。


「俺が心配してるのはぶつけた後のことじゃなくてぶつけること自体。いくら保険入ってたってぶつけない保証にはなんないじゃん」


 仰る通りですけども……。


 正直なところ、元彼と会った直後の自分がどんな心理状態になっているかわからない。そんなところで彼と二人きりになって、果たして自分を保っていられるのかと不安で仕方ない。


「じゃあ明日の朝十時出発ぐらいでいい?」


 無邪気にそう尋ねてきた彼に、沙智はもう考えるのが面倒くさくなってただうなずいた。

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