第10話 合うはすれ違いのはじめ

 部屋着に着替えてリビングに集合。ソファの上で缶ビールで乾杯。二人で同時にビールをあおり、なんとなく目を合わせる。


「なんか変な感じ。菅原くんと二人で飲むなんて」


 ビール缶を片手にそう言うと彼が「それはこっちのセリフ」と応じた。


 このリビングからの夜景はやはり予想していた通り圧巻だ。黒いカーペットの上にスパンコールをぶちまけたような景色が一面に広がっている。


「ねえ、照明落としてもいい?」


 尋ねると彼はどうぞと言うように照明の絞りボタンを指さした。


 部屋がほぼ真っ暗になると外の明かりが一層映える。あっちが光ればこっちが光る。光が互いに呼び合い反射しあっているようだ。


「綺麗」


 膝を胸の前で抱えてソファの上に座り、その夜景を堪能する。見つめているうちに光が溶け合って自分もあの風景に吸い込まれてしまうような錯覚に陥る。


「女の人ってやたら夜景好きだよね」


 この部屋の主が冷めきった声でそうこぼした。


「なんかさ、焚き火ってずっと見てられるでしょ? あれと一緒な感じ」


 言うと、「ふーん」とつまらなそうな声。しかし横目で見ると彼の視線も夜景にくぎ付けだ。


「綺麗な風景見ると殺伐とした気持ちが洗われるよね」


 さっきまでちくちくとげとげしていた心が柔らかい筆でゆっくりなでられて落ち着きを取り戻していく様。


 彼の視線がこちらに動く気配を感じる。


「殺伐としてたの? 元彼のことでも思い出してた?」


 言われて、今それは忘れてたのに、と沙智は半眼になった。


「そっちじゃなくて昼に会社でちょっとね」


 空になったビール缶をテーブルに置いて新しい缶を開ける。


「私さ、今まで周りとうまくやってきたと思ってたの。後輩からは慕われるまでいかなくても疎まれない程度に、先輩や上司からは睨まれないように」


 彼は聞いているのかいないのか、黙ったまま手の中のビール缶を弄んでいる。


「自分では良い距離感でやってると思ってたんだけどなー」


 抱えた膝に顔をうずめる。バーにいたときは強がって忘れたふりができたのに、ここに戻ってきたらなんだか弱気な自分が心からひょっこり顔を出している。


 昼に聞いた後輩たちの話が生々しいまでに思い出される。耳の中で彼女たちの嘲笑が鳴り響いているみたいだ。


 適度な距離は取っていたけど、彼女たちだって沙智なりに可愛がってきたつもりだった。見下したり馬鹿にしたことなんてない。


 でも本当にそうだったろうか。自分は実はどこかで彼女たちを軽んじていたのではないだろうか。心の隅に、それを否定できない思いもある。


 それは彼女たちの若さを見たときに。彼女たちが笑顔を振りまいている様を見たときに。あるいは彼女たちが愛されるために美しく着飾っているのを見たときに。


 向いている方向はどうあれ、彼女たちのその頑張りを自分は心の中で笑っていなかっただろうか。


 自分には決してできない努力をする彼女たちを。自分はあえて彼女たちとは同じ土俵に上がらないのだと誤魔化して。本当は羨みながら。


 横に座っている彼が二本目の缶を開ける音がする。


「石田さん……うわっ。泣いてんの?」


 言われて沙智は鼻をすすった。膝の上がいつの間にか涙ですっかり濡れている。


「ほらこっち」


 あごをつかまれ目と鼻を彼の服の裾でこすられる。


「いたっ痛い」


 顔をこすられながら抗議の声を上げると彼が軽く笑う声が聞こえた。非難がましく彼を見ると、彼は「悪い」と言いつつまだにやけている顔をそむける。


「俺さ、石田さんってもっとクールな人だと思ってた。会社でも他の人とは一線引いてる感じがするし。俺の事情もさ、全然興味ありませんみたいな顔して干渉してこなかったし」


 言われて自分の袖で顔を拭いながらまた彼を睨む。


「悪かったわね。どうせ私はクールになりきれないお局よ。後輩からは疎まれるし仕事人間のフリしてるわりに特別仕事ができるってわけでもないし長年付き合ってた彼氏にも若さ搾り取られた挙句に振られるし」


「いや、誰もそんなこと言ってないよ。被害妄想すげーな」


 彼は呆れ気味に言いながらぐしゃぐしゃと乱暴に沙智の頭を撫でた。


「そんなに卑下しなくても石田さんのことわかってる人はわかってるって。大丈夫大丈夫」


 そんなこと、なんであなたにわかるのよ?


 そんな適当に安っぽい慰め方しないで。


 私のことなんか何も知らないくせに。


 いろんな思いが浮かび上がって、でもどれも彼に伝えたい言葉じゃない。ただ彼の大きな手が心地いい。その心地よさにまかせ沙智は薄く目を閉じた。


「寝るの? 部屋行きなよ」


 飛んできた声にぱっちり目を開いて彼をもう一睨み。


「寝ない」


 彼は「あ、そう」と楽しそうに笑った。その笑顔にふっと肩の力が抜けて、沙智も思わず一緒に笑う。


「なんか菅原くんの前では愚痴言って泣いてばっかだね。ごめんね。ありがとう。文句も言わずに付き合ってくれて」


 たまにびっくりするぐらい率直だけど、この人は優しい人だ。


 思っていると、彼がふむ、と唸った。


「まあ俺にも下心があるからね」


 下心?


 驚いて彼を見る。すると彼はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「そろそろ俺の愚痴も聞いてほしいなー、なんて?」


 ああ、そいういう意味。そんなわけないのに勘違いしそうになったことが恥ずかしい。


「もちろん。なんでも聞くよ」


 ホッとしたようながっかりしたような。よくわからない気持ちを抱えたまま沙智はソファに座り直した。


 ビール缶をテーブルに置いてワインに手を伸ばした彼は、夜景の光が反射するグラスにワインを注ぐと沙智に手渡す。黙って受け取り一口含む。


「このマンションさ、すげーいいでしょ? 駅近で高台で絶景」


 尋ねられ、沙智は「はて?」と首を傾げた。愚痴を聞くつもりが彼が始めたのは自慢のようだ。


「すごくいい。理想の部屋って感じ」


 素直にそう答えると、彼は複雑そうな笑みを見せた。


「三十五年ローン」


 思わずワインを吹き出しそうになる。


「か、買ったの?」


 静かにうなずいた彼を見て、沙智は「はへー」と間抜けな声を出した。


「思い切ったね」


 今の沙智には引越しのための敷金礼金を出すのさえ大出費で大決心だというのに。


「うん」


 彼はしんみりとうなずく。


「ここが俺の、俺たちの行き着く場所だと思ってたから」


 俺たち……。


 グラスを握る彼の手に力が入ったのがわかった。何かを耐えるかのように彼は目を細める。


「ネカフェで石田さんと話した時さ、びっくりしたんだ。自分の境遇とあんまりにも似てて」


 彼は苦しそうに笑って沙智を見る。彼が泣き出すんじゃないかとどぎまぎしながら沙智は黙って先を促した。


「俺の場合、出ていったのは相手だったけどね」


 言われて思い出す、沙智が寝泊まりさせてもらっている部屋の様子。書斎のようだけど今は使われている感じがしない。何もない机に隙間だらけの本棚と額縁を外した跡の残る日焼けした壁。きっとあそこは彼のパートナーが使っていた部屋なのだ。


 肩をすくめた彼がワインで口を湿らせた。


「でも俺は石田さんみたいに割り切って別れられなかった。みっともなく泣いてすがった。捨てないで欲しいって。だから……」


 そう言って止まった彼の唇が細く震えている。


「だから、あんな状況でも強く振る舞える石田さんがカッコよくて羨ましくて、それであの時思わず腹いせまがいなこと言ったんだ」



『ちょっと物わかり良すぎない?』



 あのネットカフェで彼に言われた言葉が脳裏をよぎり、そういうことかと今さら納得する。


「あの日さ、石田さんと会ったあの日、俺、本当は禅さんのバーに行こうと思ってたんだ。あのバーは、俺とあいつの唯一共通の行きつけだったから」


 グラスを傾けた彼の目はどこか虚ろ。


「会えるんじゃないかって思って。本当は、今日も……」


 この人はまだ会いたいんだ。自分を裏切った、その人に。


 沙智の胸が締め付けられるように痛む。まるで沙智のその痛みに反応したように彼が自分の胸の前で拳を握った。


「未練たらしいよな」


 彼のこぼした言葉に沙智は何も答えられない。ただ彼と同じように拳に力を入れてグラスの中のワインに目を落とした。ゆらゆら揺れる液体に自分の顔が歪んで映る。


 この人は、まだ好きなんだ。


 たとえ裏切られても。たとえ捨てられても。


 その人に会いたいと思う。


 それはきっと紛れもなく愛情と呼ばれるもの。


 でもそれはもう相手には届かない。


「難しいね……」


 つぶやいて真っ暗な天井を見上げる。


「難しい……」


 思い合っていたはずなのに、どこですれ違ってしまったのだろうか。


 同じ気持ちだったはずなのに、どこで逸れてしまったのだろうか。


 それとも同じだと思っていたのは、最初から勘違いだったのだろうか。


 一瞬だけひときわ明るく光ったどこかのビルが、流れ星のようにその光をひそめた。

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