帳越しに見える月
伊月千種
第1話 生簀の恋
昼を過ぎたあたりから隣の営業部がなんだか騒がしい。
何事かと
M工業との取引成立は最近業績が少し不調だったうちの会社にとっては大きい。それを取ってきたという営業部の「菅原さん」は社内の誰もが認める会社のエースだ。
「コンペの結果出たんだ。相変わらずすごいね、菅原くん」
目を輝かせる後輩にそんな当たり障りのない感想を告げてデスクのパソコンに目を戻す。今日は早めに仕事を切り上げて帰りたい。
「すごすぎですよ! 入社以来トップクラスの営業成績キープしてるんですよね? かっこいいなー」
沙智が会話を終わらせようとしているのにも気が付かず、彼女はそのぱっちりした目をきらきらさせて顔を寄せてくる。
「ここだけの話、もうすぐ昇進の話が来てるらしいんですよね。前からモテてましたけど昇進決まったらますますモテちゃいますね」
綺麗に整えられた眉に流行色に彩られた唇。入社二年目の若々しい肌の彼女を横目に沙智は軽く笑って肩をすくめた。
「沙智さんて菅原さんと同期でしたよね? 菅原さんに大学時代からずっと付き合ってる彼女がいるって噂本当ですか? どんな人と付き合ってるんだろう」
男性に愛されるために磨き上げた彼女の笑顔には邪気がない。やれやれと思いながら沙智はまた肩をすくめた。
「さあ、どうなんだろうね。同期って言ってもたくさんいる中の一人だし、私は菅原くんとはそこまで親しくないからよく知らないな。それよりも仕事。今日は残業になっても手伝ってあげられないよ」
後輩に言うことを聞かせるときは優しいトーンで一線を引く。この微妙なバランスのとり方にもようやく慣れてきた。
話に乗ってこない沙智に不満顔を見せながら、彼女はおとなしく椅子を引いて自分のパソコンの前に座った。
「同棲中の彼氏がいる沙智さんには関係ないですよね。あとはプロポーズ待ちって感じですもんね。将来安泰。いいなー」
羨むようにため息をついてキーボードをたたき始めた彼女に「別にそんなことないよ」と声をかけつつ、内心は少し心躍る気分だ。
実は今日は同棲を始めて五年目の記念日。早めに帰って食事をしようと彼氏と約束をしている。
朝、家を出るときになんだかそわそわしていた彼の様子が頭に浮かぶ。
大学三年から付き合いだしてもう七年。お互いに仕事は順調。最近は大学時代の友人の結婚式に二人そろって呼ばれる頻度も増えている。
もしかしたら、もしかするかも、と沙智も朝からどこか浮足立っていた。
「あーあ。どこかに菅原さん並みのスペックの人落ちてないかなー」
投げやりにそう言った彼女に、落ちてる人間なんてヒモ予備軍以外の何物でもないでしょ、と心の中で突っ込みながら沙智は目の前の領収書の束をつかんだ。
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「今、なんて?」
夏も始まろうかというこの時期にエアコンをつけても部屋の中には異常な湿気と熱気が漂っていた。
それもそのはず、食卓の上のカセットコンロには熱々の鍋が今にも噴きこぼれそうな勢いでぐらぐらと煮えている。
「ごめん……」
同棲記念日は毎年家で鍋。引っ越してきた日に季節外れの鍋が食べたいと言い出した彼のおかげでこれが沙智と彼との習慣になっていた。
「なんで?」
沙智の静かな問いに沈痛な面持ちの彼は沙智と目を合わせることもせずダイニングの入り口で立ち尽くしている。
記念日には必ず定時で帰宅して二人でご飯を作る。このお約束は同棲五年目にして初めて破られた。彼の帰宅が予定の一時間ほど遅れたのだ。
おかげで鍋の支度は沙智が全部やることになってしまったが、そこはお互い社会人。急な仕事が入ることもあるだろうと大らかな気持ちで待っていた。
「ごめん……」
さっきと同じトーンで彼がもう一度つぶやく。
『浮気相手に子供ができた』
帰宅早々、朝よりも一層顔を曇らせた彼が震える声で放ったその言葉を理解しようと沙智は先ほどから何度も瞬きをしていた。
それでもどうしても彼の言った言葉の意味がわからない。
見つめているのに一度も目が合わない彼から視線を外し、沙智は火の勢いのありすぎるカセットコンロを切った。バチンと無機質な音が部屋に響く。
「本当にごめん」
もう一度深く頭を下げながら言った彼に、「それは何に対するごめん?」と聞くこともできない。
ごめん、別れてくれ?
ごめん、裏切って?
そんなことを考えながら一方で「この人将来ハゲるだろうな」なんてどうでもいい思いが頭をよぎる。
「わかった」
そう言うと、彼は頭を上げてやっと沙智の目を見た。そこにはどこか落胆の色。
そんな顔、される謂れはない。
瞬時に沸騰しそうになった感情を無理矢理に押さえつけて空気を飲み込む。食卓から立ち上がると沙智は無言で寝室へ向かった。
クローゼットや棚から持てるだけの荷物をスーツケースや大きめのカバンに突っ込む。
「残りは週末にでも取りに来るから。できるだけ一つのところにまとめといてもらえたら助かる」
ダイニングでまだ立ち尽くしていた彼にそう告げて大きな荷物を抱えて玄関へと向かう。
靴を履いて一歩外へ踏み出し、最後に一度だけ振り向く。ダイニングの入り口からこちらを見ていた彼と目が合う。
「こんなこと言える立場じゃないけど、沙智、お前は俺のこと好きじゃなかっただろ? こんなことになっても泣きもしないし、浮気の理由も聞かないんだもんな。俺に執着なんて一切してないんだな」
言われて茫然と彼を見つめる。
頭の隅がジンと麻痺した感覚が襲って来る。さっきからこの人が何を言っているのか沙智には全くわからない。
ここで泣き喚いて、浮気の理由を聞いたらこの状況がどうにかなるのだろうか。
そんなことをしたって浮気相手に子どもができた事実は結局なくならない。
彼との仲がこじれるだけで、この関係が終わってしまうことは何も変わらないのに。
「俺は……沙智にちゃんと好かれたかったよ」
バタンと閉じた扉の向こうで彼は今どんな顔をしているのだろう。
薄くて厚いそのドアに一瞬だけ触れ、沙智はその場を後にした。
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