第2話 捨てる神に疲労感
大荷物を抱えて駅前まで来た沙智は、その時点でうんざりして荷物を地面へと下ろした。まだ早い時間帯の駅前は人でごった返している。
とにかく一刻も早く彼の元から離れたくて一心不乱にここまでやって来たが、この後どうするかなんて何も決まっていない。
沙智はスマホを取り出すと、とりあえず一晩だけでも泊めてくれそうな友人の名前を探し始めた。アドレス帳を映し出している画面を素早くスクロールして、ある一点で指を止める。しかしそこに映る名前を見つめて少し考えてから沙智はスマホのホームボタンを押した。
人とは狭く深くが習慣化している沙智にははっきり友人と呼べる相手が少ない。しかも急に泊めてくれそうな友人となると思いつくのは一人だけだ。
しかしその彼女は最近同棲を始めたばかり。迷惑をかけたくない。
それならと今からでも取れそうなビジネスホテルかカプセルホテルを検索しようとwebブラウザを起動する。と、画面の中央に「バッテリー残量が少なくなっています」の文字が躍った。
帰宅してから充電し忘れてたことに気づいて奥歯を軽く噛み、ふと顔を上げると目の前の景色に何か違和感を感じる。
首をひねって違和感の正体をつかもうとして、次の瞬間沙智は慌てて周囲を見回した。
ない! スーツケース!
スマホを握りしめたままぐるりと視線を彷徨わせたが、あたりは人が溢れかえっていて十分には見渡せない。
こんな人混みで荷物から目を離すなんて……。
貴重品の入ったバッグは肩にかけたまま。もう一つの大きい鞄は沙智の足に立てかけてある。持っていかれたのはほんの十数センチ離れていたスーツケースのみ。
それでもショックが大きかったのは、いつもなら絶対にしないようなミスを自分がしてしまったからだ。
「ほんっとに最悪な日……」
大きなため息とともにつぶやいて思わずその場に座り込む。
公共の場で地面に座り込むなんて、いい大人のすることじゃない。いつも駅前などで座って人を待っている若い子たちに白い眼を向けていた自分がこんなことをする日が来るなんて。
わかっているのにもう心がへとへとで足に力が入らない。
すると沙智の耳に「石田さん?」という聞き慣れない声。ゆるゆると顔を上げるとそこには普段は言葉を交わすことのない同僚の姿があった。
「菅原くん……」
まさかこんなときにこんな姿を会社の人間に見られるとは。神様はどこまで自分に冷たいのだろう。
バツの悪い思いで彼から目をそらすと、その様子を知ってか知らずか「こんなところで何してるの?」と続けて声をかけられた。
沙智に近づいて視線を同じ高さまで持ってきた彼は、沙智の荷物に目をやると何か悟ったような顔をした。
「いえ、まあ……」
ますます居心地の悪くなった沙智がごまかすように言葉を濁すと、彼はスッと立ち上がって沙智の手を取った。
「俺、今からネカフェに行こうと思ってたんだ。石田さんもどう? ペアシートにするとちょっとお得だし、ネットも使えて涼しくてここよりはマシだと思うけど?」
その提案に沙智がぽかんとしていると、彼は有無を言わさずそのまま沙智の手を引いて歩きだした。
「あ、あの……」
慌てて足元の荷物をすくい上げた沙智に、しかし彼は黙って歩き続ける。
もう放っておいてほしいという気持ちと、ネットカフェならスマホも充電できてネットも使えるし、何なら一晩くらい過ごせるな、という思いが脳裏をかすめる。
沙智がごちゃごちゃと考えているうちに駅裏のさびれたネットカフェのネオンが目に飛び込んできた。古い外観にやたらきらびやかな看板。店名がまぶしいほどに明滅している。
「禁煙のペアシートの……とりあえず3時間パックで」
入るなり慣れた様子でカウンターの店員にそう告げた彼の背中を、沙智は不思議な気持ちで見つめた。カウンターの向こうの店員が彼の背中越しに沙智に視線をよこす。
「1,960円になります」
店員のけだるい声が静かな店内に響く。
シートの場所を確認してさっさと歩きだした彼を追い、沙智も店の奥へと足を踏み入れた。店員の好奇の視線を背中に感じながら沙智は肩にかけた鞄を背負いなおす。
「飲み物取ってくる。コーヒーでいい?」
シートに荷物を置くなりそう聞いてきた彼に、沙智は無言でうなずいた。そうして彼が席を外してから、シートに座りなおして沙智は一息をついた。
ようやくぐるりと回りを見回せる余裕が出てきて個室になっているシートをなんとなしに見回す。
外観からは考えられないほど店内は清潔感にあふれている。清掃も行き届いているようで、あまりネットカフェには来慣れていない沙智でも落ち着ける空間だ。
「はい、これ」
紙コップ二つと脇に漫画を数冊抱えて戻ってきた彼がシートの入り口で片方の紙コップを沙智に差しだす。それを受け取りながら、沙智はまた彼を不思議な気持ちで見つめた。
「ねえ、菅原くん。なんで私をここまで連れてきたの?」
いくら同期とはいえ、まともに話したのなんて入社当初の新人研修のときくらいだ。駅前で彼が自分に声をかけたことさえ沙智には驚きだった。
「あんなところで座り込んでるのがうちの社員だなんて万が一取引先に知れたら体面悪いだろ」
すぐに返ってきたその答えに、沙智はなるほどと納得する。さすがやり手の営業マン。いつでも仕事優先志向。同時に少しでも優しい答えを期待していた自分に恥ずかしくなる。
「あの、ここのお金……」
財布を手に言いかけると、彼は少し目を見開いてから手を振った。
「いいよ。大した金額じゃないし。……お礼も兼ねてるから」
小さくそう付け足した彼に、沙智は首をかしげる。
「お礼? なんの?」
しかし彼は「覚えてないならいい」とそのまま漫画を読み始めてしまった。
むしろお礼をするべきはこちらでは?
疑問を持て余したままその場で固まっていた沙智は、しかしそのうち考えるのも億劫になり「ありがとう」とだけつぶやくと、シートに備え付けられていたパソコンに向き直る。
一口含んだコーヒーは安っぽい味で沙智の舌をしびれさせた。
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