第6話 胸筋の交わり
沙智のスマホが小さなバイブ音をたてたのは終業時間間際の、仕事も一区切りつきそうなころだった。
『恭平と別れたって? 今どうしてんの? 今日会える?』
数少ない友人の中でも唯一と言っていい親友からのメッセージに、もう話が伝わっているのかと沙智は驚いた。同時にその短い文章からでも彼女の心配している顔が想像できて、沙智は薄く笑みを浮かべる。
返信しようと何文字か打ち込み、そこでしばらく考え込む。
先ほど同僚から受け取ってしまったキーケースはまだ沙智の鞄の中にある。
あの後すぐに返そうと方々探しに行ったものの、多忙な彼はなかなか捕まらない。呼び出そうにも連絡先など交換していないのでどうしようもない。
最終的に訪れた営業部で彼は他社との打ち合わせのためにすでに外出してしまい、今日はもう戻らないと聞かされ、沙智は諦めてキーケースをカバンの中に仕舞ったのだ。
これがないと彼も家に入れないはずだ。しかし取引先と接待と言っていたので帰りはそこまで早くないだろう。
そう結論づけると沙智は打ちかけの文章を素早く入力して親友に返信した。
『じゃあ七時に禅ちゃんのお店ね』
すぐに返ってきたメッセージに一人うなずく。
「禅ちゃんのお店」とはこの友人の大学時代のバイト先の先輩が二、三年前に開いたバーだ。
昨日まで沙智が住んでいたマンション最寄りの駅近くという立地だったため、友人に誘われオープニングパーティーに参加して以来、たまに沙智一人でも仕事帰りに寄っていた。
「じゃあ沙智さん、お先に失礼します」
定時を過ぎてしばらくしてから隣席の後輩が席を立ったのに軽く手を振り、沙智は腕時計に目を落とした。
今からお店に向かっても約束の時間までには早い。それなら不動産屋に寄ってみようかとスマホでまだ開いている不動産屋を調べ、沙智は立ち上がった。
会社を出てこの五年、毎日のように通っていた通勤路をたどる。昨日の帰り道はまさかあれが最後の家路になるとは思いもしなかった。
いつもの駅で降りたって大通りへと出る。昨夜、自分が座り込んでいた場所にちらりと目をやり、なんとなく周囲を見回す。
やっぱりないか。
もしかして自分のスーツケースがどこかに転がっているんじゃないかと淡い期待をしてみたが、やはりそんなものは見当たらない。
もう一度だけ同じ場所に目線を送り、沙智は飲み屋街から少し離れた通りへと向かった。
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「いらっしゃいませ~。あら、沙智ちゃんじゃない。最近ご無沙汰だから寂しかった~」
約束の時間通りにバーのドアを開くと、バーカウンターの向こうから笑顔で出迎えてくれた髭面のこの店のマスターが甘い声を出した。
「禅ちゃん、久しぶり。ごめんね、最近忙しかったから。真奈、来てる?」
「真奈と待ち合わせ? まだ来てないわよ。座って座って!」
黒シャツ黒スラックスというシックな服装のマスターはその張り裂けそうな胸筋の前で手を小刻みに振って目の前のカウンター席へと沙智を誘った。
「何にする? 生?」
「うん。お願い。あと軽く食べるものももらえる?」
バースツールに腰かけるとカウンターの向こうにいる他のバーテンダーがにこやかに沙智に会釈した。ここのバーテンダーはみんなイケメンぞろいで目の保養だ。
「はい、どうぞ」
冷えたグラスになみなみと注がれたビールが沙智の目の前にやってくる。
「いただきます」
薄く結露したグラスを持ち上げ、一気にぐいっとそれをあおって沙智は幸福のため息をついた。
「あたし、沙智ちゃんの一杯目の飲みっぷり好きなのよね」
マスターがカウンター越しにクスクス笑いながら沙智に視線を送ってくる。口まわりにできた泡の髭を手の甲で拭いながら沙智は「どうも」と首を傾けた。
しばらくマスターとの談笑を楽しんでいると、バーのドアが勢いよく開いた。外から長い髪を振り乱した女が飛び込んでくる。
「ごめん沙智! 電車遅れた!」
「お疲れ、真奈」
「遅いわよー! 沙智ちゃん待たせるんじゃないわよ」
振り向いてマスターと共に親友を迎えると、彼女は息を切らせながら沙智の横の席にどかりと腰かける。
「あー疲れた暑い禅ちゃん生」
額の汗を拭ってカウンターに腕を置きすべての言葉を繋げて発するとマスターが呆れたように肩をすくめた。それにはお構いなしで彼女はぐりんと頭を回して沙智を見る。
「で、何? 大丈夫? どういうことよ? 今どこにいるの? 大丈夫?」
矢継ぎ早な質問の仕方は彼女のせっかちさをよく表している。その勢いに気圧されながら、沙智はどこから話そうかと視線を巡らせた。
「ええと、浮気されました。浮気相手に子供ができました。別れました。以上?」
昨日の出来事はどう話してもうまく話せそうにない。まだ沙智の中でも整理しきれていない。なるべく感情を抑えようと沙智が箇条書きで経緯を語ってみると、彼女はバースツールに深く掛け直してふうっと息をついた。
「いや、まあ大体の話は聞いてるんだけどね。もうほんと恭平の馬鹿。何してんのよあいつ」
そう言って不快そうに眉を上げた彼女の前にマスターが静かにビールグラスを置く。
もともと沙智と彼氏の仲を取り持ったのは二人のサークル仲間だった彼女だ。沙智の気持ちを知り、何かと理由をつけてはサークル仲間数人でのイベントを企画して沙智と彼氏との距離を縮めてくれた。
今でもその頃の仲間とは時折飲んでいるのだが、今後はその飲み会にも顔を出しにくくなる。
ビールを一口含んで彼女はちらりと沙智を見た。
「で、大丈夫なの? ちゃんと話し合った?」
気遣うように聞いてきた彼女に沙智は静かに首を振る。
「なんかさ、浮気相手に子供出来たって聞いた時、頭真っ白になっちゃって。何も言わずに家出ちゃったんだよね。まあどっちにしろどうしようもなかったんだけど……」
「え? じゃあ浮気相手のことも聞いてないわけ?」
言われて沙智は首をひねる。まるで彼女は何かを知っているかのような口ぶりだ。
「なに? 何か知ってるの?」
彼女は気まずそうに視線をそらすとしばらく口ごもってからまた沙智を見た。
「映美だって。相手……」
彼女の口から出てきた名前に、沙智は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。それは今でもよく集まるサークル仲間の一人、沙智たちの一つ下の後輩の名前だ。
そんなに近い子と? 二人ともわかってて? 一体いつから?
視線をカウンターの手元に落とし放心状態になる。まさか沙智の知り合い、しかも仲が良いと思っていた子が相手だったなんて。
二人の裏切りとその無神経さに腹が立っているのか呆れているのか自分でもわからない。
同時に昨日の今日で親友の彼女にすでに情報が伝わっていた理由にも納得する。
泣きたいような、意地でも泣きたくないような、ぐちゃぐちゃな気持ち。隣の彼女が優しく沙智の頭をなでる。
「はい。あたしのおごりよ」
マスターが沙智たちの前にピンク色のカクテルを置いた。それ以上何も言わず、ただ微笑んだマスターはさっさと二人から離れていく。
その気づかいに感謝しながら沙智は目の前のカクテルを一口飲んだ。
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