第5話 雪と隅
いつもとは違う場所からの通勤はなかなか緊張する。事前に電車の時間や乗り継ぎなどを調べてから出たが、それでも何度もスマホを見ては乗り換える電車の時間を確認する。
無事に乗り換えをすませたところでようやく沙智は一息ついた。満員電車の中、つり革に体重をあずけながらぼんやり窓の外を眺める。
横の高校生カップルが「テストが~」とか「あの先生って~」とひそめた声で話しているのを、聞くでもなしに耳を傾ける。付き合いはじめだろうか。まだ会話がぎこちない。
自分たちにもそんな時期があったなと思い出しかけ、沙智は慌ててその思い出を振り払った。危うく昨日の出来事まで思い出してしまうところだった。
社会人たるもの会社には私情を持ち込まない。自分に言い聞かせ頭を切り替えようと試みるも、一度戻ってきてしまった思考を追いやるのは難しい。
必死に今日終わらせるべき仕事を頭の中で念仏のように唱えていたら今度は降りる駅を通り過ぎそうになった。
やっぱり私、普通の状態じゃないんだ。
慌てて滑り出た駅のホームで肩にかけていた鞄を背負いなおし、沙智は自己嫌悪に苦い顔をする。
いつもは通勤中などほぼ無心で過ごしているというのに今日はどうにも駄目だ。やはり思ったほど引きずっていないとはいえ、ダメージは大きいらしい。
「あれ? 沙智さん? おはようございます」
油断したところで今度は背後から突然声をかけられ沙智はびくりと肩を揺らす。
「南さん。おはよう」
振り向くといつも隣の席で社内の噂話を教えてくれる後輩が立っていた。今日も爪の先までばっちり決めた彼女の恰好には隙がない。
「このホームで会うの初めてですね。いつもは本線のほうじゃなかったですか?」
彼女は屈託のない笑顔で沙智の横に並び立って歩き出す。
「ああ、うん。ちょっと……」
言い濁しながら沙智は彼女から目をそらした。
別に人前に出て恥ずかしい格好をしているわけではないけれど、こんな風に自分を磨き上げた若い女の子と連れだって歩くのには少し引け目を感じる。
「あ、もしかして彼氏さんと喧嘩とかですか?」
彼女の冗談めかした言葉に沙智は一瞬だけ顔を引きつらせ、すぐに持ち直すと「まあ、そんなとこ」と短く答えた。
「え? あ、すいません……。でもでも、男なんてほっとけばすぐ戻ってきますよ。あたしの彼氏も喧嘩してからほっとくと二、三日後には謝ってきますし!」
沙智の様子から何か察したらしい彼女は、慌てた様子で身振り手振り言いつくろう。しかし彼女のそんな悪意のない言葉にまた沙智の胸が鈍く痛んだ。
「南さん、彼氏いたの?」
それでもサラリとかわす様に沙智は隣の後輩を横目で見る。
「あ、はい。付き合って一年ぐらいですかね」
そう言って少し申し訳なさそうに目線を落とした彼女に沙智は驚きの目線を送った。
彼女が入社してきて一年と少し。沙智は入社当初から彼女が営業部のエースに熱を上げているのを何度も目にしている。昨日もそうであったように、ことあるごとにあんな男性と付き合いたいと言っていたことも記憶している。
あの言動が彼氏がいるうえでのものだったなんて。
彼女のその気の多さに驚きあきれつつも、若い子ってそんなもんなのかな、と沙智は首をかしげた。
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会社でパソコンの前に座った瞬間、沙智の頭は自動的に切り替わった。まるでプライベートのごたごたなどなかったかのようにいつも通り仕事に打ち込む。
上司からの飛び込みの仕事があったことも幸いしたのだろう。朝から集中していたおかげでお昼休憩までの時間はあっという間で、余計な考え事をせずに過ぎ去った。
午後の業務も順調にこなし、そろそろ一旦休憩を入れようかと頭の隅で考え始めた矢先、経理部の入り口あたりがにわかに騒がしくなったことに気がつく。
何かトラブルかな、と視線をそちらへ向けると、数人の女性社員に囲まれた営業部の同期が部内を見まわしているのが目に入った。
あれ、珍しい。
普段は経理部の女性陣が競い合うように営業部へ出向いて御用聞きしているため、彼自身がこの部屋に顔を出すことはほとんどない。
「沙智さん、菅原さんですよ。うちに顔出すなんて珍しいですね」
沙智と同じく部署の入り口を見やった隣の後輩が目を輝かせて耳打ちしてくる。
「そうね。何か漏れでもあったのかな」
そう言って入り口から目をそらそうとした瞬間、彼の視線が沙智を捉えた。にっこりと爽やかに笑みを放った彼が沙智の方へと歩を進め始める。
うわ、勘弁してよ。
まさかの展開に眉根を寄せていると、隣席の後輩が彼に視線を向けたまま「こっちに来ますよ!」と興奮したように沙智の袖を引っ張った。
「石田さん。頼みたい仕事があるんだけど、いいかな?」
途中で方向転換しろ! という沙智の願いも虚しく目の前で立ち止まった彼は、その顔に作りものっぽい微笑みを浮かべる。
「あ……、はい」
経理部中の女性社員に睨まれている気がするが、仕事と言われれば内容を聞かずに断るわけにもいかない。
喘ぐような思いで手招きされるまま席を立つと、沙智を見上げた隣席の後輩が声を出さずに「いいなあ」と口の形を作った。それに苦笑いで答えて部屋を後にする。
しばらく歩いてあまり人が使わない階段脇の目立たないスペースまで来ると彼はようやく足を止めた。
「で、仕事って?」
なんでわざわざこんなところまで。思いながら尋ねると彼は振り返ってポケットから取り出した何かを沙智の方へと差し出す。
「なに?」
素直に受け取りながら怪訝な顔で問うと、「うちの鍵」と彼は事も無げに答えた。確かに沙智の手の中にあるのはいくつかの鍵を束ねたキーケースだ。
「え、なんで?」
瞠目してまた問うと「今夜取引先の接待入ったから」と、またしれっとした表情で答える彼。
「いや、そうじゃなくて、えっと、一晩で十分助かったし、今日はもう大丈夫だよ」
実際、彼の家に戻るつもりなどなく、荷物は全て駅のコインロッカーに入れてきている。
キーケースを突っ返そうと押し付けたが、しかし彼は受け取るそぶりも見せずに沙智の目をじっと見た。
「行く当て見つかったのか?」
その質問に沙智は言葉を詰まらせる。当てなど今尚見つかっていない。友達に連絡するのはやはり気が引けるし、実家には帰りたくない。だからと言ってこれ以上彼に迷惑をかけるわけにもいかない。
黙っていると彼がガリガリと頭を書いた。
「一晩も二晩も同じだし、行くとこないならもう週末までうちにいろよ。あの通り部屋は余ってるし、別に俺としては石田さんにいられて困る理由もないし」
「でも……」
それでも迷ってグズグズしていると彼はふうっとため息をついた。
「昨日も言ったけどさ、こういう時ぐらい遠慮せずに人の厚意に甘えとけば? 自立してるのは立派だけど過度の遠慮は可愛げがなく見えるよ」
可愛げがない。そのフレーズに思わず彼を睨みつける。
「大きなお世話よ。女に可愛げが必要だなんて随分古い考え方してるのね。あんまり社内ではそういう発言しないほうがいいんじゃない? 相手が悪ければセクハラで訴えられるわよ」
飛び出た沙智の反論に、しかし彼は顎元に手を当て少し考えてから「確かに」と頷いた。
「は?」
呆気にとられた沙智に構わず彼は一人で納得したようにまた深くうなずくと沙智の肩に軽く手を置く。
「悪かった。謝るよ。俺が本当に言いたかったのは、あんまり遠慮されると友達として寂しいってことだ」
「はい?」
誰と、誰が、いつ友達になった。
たぶん論点はそこじゃないのだが、彼の言動の突拍子のなさに毒気を抜かれ、先ほどまでの苛立ちが吹っ飛ぶ。
「あの……」
混乱したまま沙智が口を開きかけた時、バイブ音が辺りに響いた。
「はい。菅原です」
さっとスマホを取り出し応対した彼は、沙智に軽く手を振って来た道を足早に戻って行く。
その背中を呆然と見送ってから沙智はハッと自分の手の中を見下ろした。
キーケース。返し忘れた。
慌てて彼の去って行った方角に目をやったが、彼の背中はすでに消えていた。
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