第4話 干天の珈琲

 目を開いた瞬間、見慣れない高い天井が目に飛び込んできた。しばらく呆然とそれを見上げ、何回か目をしばたたかせる。


 自分がどこにいるのか混乱して、沙智はゆるゆると上半身を起こした。なんだか右肩が重い。簡易なソファベッドの上で肩をぐるぐる回しながら周囲を見回す。


 ブラインド越しに日の光が差し込む窓とその窓際に置かれた大きな机。机上は綺麗に片付けられてペンが二、三本転がっているだけだ。


 壁を埋め尽くすように立ち並ぶ本棚は、しかしその大半が空洞になっていて、残された本たちが肩を寄せるように所在なさげに立っていたり、はたまた倒れていたり。


 窓とは逆側の壁にはつい最近まで何かが飾られていたのだろう。綺麗な四角い額の形で壁の色が一部分だけ違う。


 ああ、そうか。


 そこで自分がどこにいるのか思い出し、沙智はソファベッド脇に落ちていたスマホを拾い上げた。まだ出勤までにかなり余裕がある。


 ソファベッドから立ち上がりドアを開けるとフローリングの廊下。左手すぐに玄関、右手奥には別の部屋につながるドアが見える。


 昨夜、警察署に寄ったら思いがけず遅い時間になってしまったため、ここについてから寝る部屋と風呂、トイレ、洗面所しか案内してもらえなかった。しかし間取りから右手奥のドアの先はおそらくリビングだろうと見当がつく。


 廊下を挟んで斜め向かいの洗面所へ行き、すべての身支度を整えると沙智はリビングに続くであろうドアをノックした。


「どうぞ?」


 ドア越しに聞こえた声につられ開けるとそこはバルコニーからたっぷりの日が差す広々としたリビングダイニング。


 モデルルームのように趣味の良いシンプルモダンな家具で彩られ、空間をぜいたくに使った家具の配置はまるで人の生活感がない。


 タワーマンションの上階に位置する部屋なのでバルコニーからは周囲の景色が一望できる。きっとここからの夜景はロマンチックに違いない。


 まさに若い人が憧れるような部屋。若い女性ならばこの部屋でシャンパングラスを傾けながら理想の彼氏と過ごす夜なんていうのを夢想するのだろう。


 視線を移すとダイニングテーブルを前に優雅にコーヒーを飲みながら新聞に目を通しているこの部屋の主。糊のきいたワイシャツにネクタイ姿でびしっと決めた彼は、あたかもこのマンションの販促撮影のために呼ばれたモデルのようだ。


 なんかこの状況に胸焼けしそう。


 心の中で独り言ちているとモデルばりのその彼に「おはよう」と声をかけられる。


「おはよう」


 同じように返して彼を見ると、「座れば?」と席を勧められた。言われるがままに彼の正面に腰を下ろす。


「朝食、パンとかフルーツでいい? シリアルもあるけど。ヨーグルトも冷蔵庫に。飲み物はコーヒーできてるけど飲む? 紅茶なら棚にあるからお湯沸かすけど」


 沙智が腰を下ろすと同時に立ち上がった彼は、カウンターを挟んで向こうのキッチンの棚から次々にいろいろなものを出してきてはダイニングテーブルに並べ始めた。


「じゃあ、とりあえずコーヒーいただきます」


 その勢いに押されながら沙智が軽くうなずくと、彼は「オッケー」とどこか得意げに笑う。


「俺の特性ブレンド」


 出されたカップに注がれた芳ばしい香りを肺いっぱいに吸い込む。


「ありがとう。いただきます」


 一口すすってその香り高さと、口の中に広がるコクと甘味の妙に驚く。


「おいしい」


 顔をあげて告げると彼は嬉しそうに口角を上げた。


「だろ? かなり研究したからなー」


 満足げにキッチンに戻っていく彼の背中を見ながら「すごいね」と感想を漏らす。沙智もコーヒーはよく飲むほうだが、さすがに研究しようとまでは思わない。


 コンビニのコーヒーも最近はかなりおいしいし、自分好みのコーヒーを出す喫茶店だって探せば見つかる。それをわざわざお金になるわけでもないのに自分で研究するなんて。


 この部屋といいコーヒーへのこだわりといい、なんか意識高いなこの人。思いながらまたカップを口に寄せる。


「コーヒーなんて最初は興味なかったんだけどさ、取引先の担当者にコーヒー好きの人がいて、話合わせるために勉強してみたらこれが結構奥深くて。見事にはまっちゃったんだよね」


 鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌でそう語った彼に心の中でまさか仕事のためだったとは、とひそかに頭を下げる。


「トーストでいい?」


 薄く湯気の立つパンを盛った皿を手に戻ってきた彼は、テーブルにいくつかのジャムとバターを置いた。どれも高級スーパーでしか見かけないメーカーや有名パン屋のオリジナルブランドのものだ。


 激安スーパーの特売品のバターや大瓶のジャムしか買わない沙智にはそれらの小洒落た容器がまぶしく見える。


 このマンションといい、同じ会社に勤めているのにこの人と自分の給料はどれほど違うのだろうか。沙智がそんな不毛な思考を巡らせていると、彼が正面から沙智の顔を覗き込んだ。


「何?」


 トーストを持ったまま思わず身を引くと、彼もつられるように身を引いた。


「あ、ごめん。目、腫れてないな。良かった」


 言われてとっさに目元に手をやる。そういえば昨日は号泣したんだった。思い出してまた恥ずかしくなり、沙智は彼から目線をはずした。


「あの、お見苦しいところをお見せしてすみませんでした。あと泊めていただいてご飯まで、ありがとうございます」


 改めて礼を言い、その場で深々と頭を下げる。


「昨日は混乱していたというか、途方に暮れていたというか、本当にごめんなさい。完全に八つ当たりしてしまって……」


 本当に昨夜はどうかしていた。彼氏とのことも含め、いろいろなことが一度に起こりすぎた。


 いつもなら抑えていられる感情を、よりにもよってあんな場所で爆発させて同僚にぶちまけ泣き喚くなど、とんでもない醜態だ。


 一晩であまりにも多くの「初めて」を経験しすぎて沙智の脳はいまだに情報を整理しきれていない。ただ目前の出来事を追うことで精いっぱいで謝罪も礼も遅れてしまった。


「いや、こっちこそ。……というか、昨日のことは俺が悪かったよ。ごめん」


 目の前の彼が慌てて頭を下げる気配を感じ、沙智は視線を上げた。


「あんなこと言われたら石田さんが怒るの当たり前だよ。ごめん。俺も、実はちょっと八つ当たり入ってたというか……。とにかく、すみませんでした」


 そう言ってしばらくしてから頭を上げた彼と視線を合わせ、なんとなく笑い合う。


「何してんだろうね、私たち。もういい大人なのに」


 それでもあんなことがあった翌日なのに沙智の心はどこかすっきりしていた。あまり引きずらずに済んでいるのは、意図せずにだろうが、彼が沙智の感情を爆発させてくれたおかげだ。


「いい大人だから大人な対応してくれたんだろ? いつ謝ろうかタイミング見計らってたんだ。先に謝らせちゃってごめん」


 ホッとしたように椅子に深くかけ直した彼は、腕時計に目をやると素早くカップの中のコーヒーを飲みほした。


「ごめん、もう出なきゃ。早くから会議があるんだ」


 スーツを羽織りながら立ち上がった彼に、沙智も食べかけのトーストを慌てて口に突っ込む。


「石田さんはゆっくりしてって。玄関オートロックだからドアしっかり閉めてくれればそれでオッケー。じゃ、いってきます」


 そのまま鞄を抱えて出て行った彼にトーストでいっぱいの口で「いってらっしゃい」と小さく声をかける。


 ばたんと玄関の戸が閉まる音を聞きながら、ポツンと一人残されたリビングで居心地悪く椅子に座り直すと、沙智は冷め始めたコーヒーで口の中のトーストを喉の奥に流し込んだ。

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