第17話 苦しい時は身二つ
流れ落ちる涙をぬぐいながらエレベーターのボタンを何度も押す。
とにかく一刻も早く彼から少しでも遠ざかりたい。
ゆっくりと上昇してくるエレベーターに焦れながら尚も流れ続ける涙を掬いきれずにいると、廊下の向こうで子供の甲高い笑い声が聞こえた。
こんなところ見られたくない。
咄嗟にエレベーターから離れ階段へと歩き出す。
階段を駆け下りて駐車場へとつながる裏口を開けようとしたところで外から入ってきた人とぶつかった。
「すみません」
相手の男性が謝ってきたのに、嗚咽を漏らしてしまいそうで口を開けられない。手で口元を覆い一礼だけして通り過ぎ、相手の不審そうな視線を振り切る。
安心できるどこかへ今すぐ駆け込みたい。それなのに今の沙智には自分の居場所がどこにもない。
来客用駐車場に停められたままの同僚の車を目にして沙智の口から薄くしゃくりあげるような声が出た。
今は無人のその車の前まで小走りで駆け寄ると耐えきれなくなり車のドアに手をつきしゃがみ込む。
出そうになる声を抑えようと口を引き結ぶが、口の端から漏れ出る息が意図に反して咽び泣きになる。頬から伝う涙がアスファルトの色を濃く変えていく。
何で、何で、と頭の中を駆け巡る答えのない問い。
私はあなたに十分じゃなかったの?
私に何が足りなかったの?
私とあの子では何が違ったの?
車のドアについていた手に力が入り、自然と拳を握りしめる。地面に膝をついて力なく崩れ落ちる。そのまま頭が膝についてしまうほどに丸まって体を震わす。
もう本当に戻れない。
わかっていた。もうとっくに終わっていた。諦めはついていた。思い出にできると思っていた。
それなのにこの淋しさは何。
この空しさはどこから来るの。
いつかこの悲しみは癒えるの。
握っていた拳から力が抜け、ずるりと体の横に落ちてくる。
堪え切れなくなり喉の奥から嗚咽が迫り上がる。すると何かが沙智の背に優しく触れた。
びくりと体を揺らし、ゆるゆると上体を上げる。そこには無表情で沙智を見つめる同僚の顔。
「必要なら呼べって言っただろ」
ぶっきらぼうにそう言った彼が、その言葉とは裏腹に優しく沙智を引き寄せる。
彼の胸の中にすっぽりと収まり、身体中で感じるその熱に沙智の息がますます上がる。
「なんで……」
なんでここにいるの。
なんで私に優しくするの。
なんであの人は私を裏切ったの。
なんで私は選ばれないの。
何に対する「なんで」なのか沙智自身にもわからないまま彼の胸に縋り何度もただ「なんで」と繰り返す。
彼が沙智を抱く腕の力を強めた。
「うん……。そうだね。俺にもわからない……」
彼が戸惑ったように沙智の耳元でそう囁く。
きっと彼の胸に今浮かんでいるのは目の前の沙智ではない、違う誰か。
まるで迷子のような不安そうなその声に、沙智も彼の背にまわした腕に力を込めた。
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あれからどれほどの時間を経て、どうやって車に乗り込んだのか記憶が定かではない。
ただ彼がハンドルを握りながら「寝てなよ」と優しく声をかけてくれたことだけははっきりと覚えている。
泣き腫らして熱を持った目とツンと痛む鼻の奥が不快で、感情の波に飲まれることにも疲れていた沙智は言われた通り大人しく目を閉じた。
そうしてしばらくの間、何も考えることなく深い眠りに落ちていた沙智が次に目を開いた時、車はまだ道路の上を滑らかに走っていた。
だいぶ寝たと思ったのに。
思いながら窓の外を見て異変に気付く。
「ねえ、あの……」
「あ、おはよ。腹減ってない?」
前を見ていた視線をちらりと沙智に寄越した彼は上機嫌にそう聞いてきた。
「あ、うん。ちょっと。いや、そうじゃなくて……」
沙智はまた窓の外を見た。
歩道も信号もない綺麗に整備されたまっすぐに伸びる道路をこの車は軽快に走っている。
「なんで高速に乗ってるの?」
道路上に表示された看板を見て沙智は自分たちが下り方向へすでに三十分近く走っていることに気づいた。
「ねえ、どこに向かってるの?」
ぼうっとしていた頭が覚醒し始め、沙智はキョロキョロとあたりを見回す。走行車線をのんびりと走る車は次々に別の車に抜かれている。
「石田さん、明日なんか予定あった?」
「新居の内覧に行こうかと……」
沙智の疑問には答えず逆に尋ねてきた彼に、事態が飲み込めないまま素直にそう答える。
「そんなの今度でいいじゃん」
そう言った彼がアクセルを踏み込んだ。ぐんと車のスピードが上がる。
「サービスエリアで昼食おう。ついでに必要なものもそこで買って……」
勝手に話を進める彼に沙智は身を乗り出した。
「待ってよ。ほんとにどこに行く気?」
焦って彼に詰め寄ると、彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「思い出の上書きに」
「はい?」
彼の言っていることが理解できず、無意識に語気を強めて聞き返す。
「石田さんが元彼と行った温泉ってH山のことでしょ? 俺も昔行ったなー。懐かしい」
「なんの話?」
能天気に話を続ける彼に、私の言葉は通じてるのかしらと心配になる。
「だから行こうよ。一緒に行って、前行った時よりも楽しい思い出作って忘れちゃいなよ。元彼のことなんか」
そして優しく微笑んだ彼に思わず言葉を詰まらせる。
「……何も用意してないのに」
ようやくそれだけ口にすると、彼が沙智の頭を片手で軽く撫でる。
「今はなんだって旅行先で手に入るから」
彼の言葉にうなずいて沙智はまた代わり映えのしない窓の外の景色に目をやった。
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