第16話 安然銷恨

 たったの数日顔を合わさなかっただけなのに、まるで数か月ぶりに顔を合わすような感覚。


 しばらく互いにぎこちない表情のまま立ち尽くしていたが、いつまでもこんなことをしていても仕方ない。沙智は靴を脱いで部屋に上がった。


「勝手にやるから」


 そう言って遠慮なく中に入っていくと「沙智」と彼に呼び止められる。振り向いてまともにぶつかった視線に、彼が臆したように目をそらす。


「なに? 心配しなくても自分の物しか持ってかないわよ」


 わざとらしく冷たく言うと、彼が慌てたように首を振った。


「いや、そうじゃなくて……。あの、終わった後ちょっとでいいから話せないかな」


うつむきながら言った彼に大げさにため息をつく。彼の肩に力が入るのが視界の隅に入る。


「話すことなんてないけど」


 今さら謝られようが言い訳されようが、何か変わるわけでもない。それよりももう放っておいてくれたほうがよっぽどありがたい。


「でもあれからちゃんと話してないし。俺はちゃんと話したい」


 思いがけず語気を強めた彼に驚いて「わかった」と小さくつぶやく。


 寝室に入って置きっぱなしだった大きめの鞄を取り出し、手近なものから仕分けを始めながら色々な思いが駆け巡る。


 早く終わらせてしまいたいけれど、終わったら話し合いが待っている。


 どちらにせよ気が重く、息苦しさで潰れてしまいそうで沙智はもう一度大きく息を吐いた。


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 ほぼ全てを仕分け終えてみると、やはり自力で持っていくには物が多すぎる。


 手で持ち帰るものは大きめのカバンに押し込み、残りは郵送することにして玄関に段ボール箱を積み上げてから、沙智はさっさと宅配業者に引取の依頼を出した。最近はこういうこともスマホ一つでできてしまうので楽ちんだ。


 タタタンッとテンポよく必要なことを打ち終えたところで彼が待ち構えていたようにリビングから顔を出した。


「終わった? お茶、麦茶でいいかな?」


 おずおずと口を開いた彼に無言でうなずいて、足取り重くリビングへ向かう。


 ダイニングテーブルにつくと異常に喉が渇いて、彼が入れてくれた麦茶に手を伸ばした。


 一口遠慮気味に飲んでみるが、喉の渇きはまったく癒えない。この渇きは暑さのせいだけではないのだろう。


 向かいに座っている彼を見る。ついこの間までは楽しみだったその時間が、今はこんなにも苦しい。


 話したいと言った割に、いつまでも何も切り出さない彼に少しの苛立ちを覚えながら、なるべく感情を出さないように口を開く。


「玄関の段ボール、後で業者に取りに来てもらうよう手配してるからよろしく」


 すると彼が緊張気味に唇を湿らせた。


「うん。わかった。その、今はどこに? 真奈のとこ?」


 ようやく口を開いた彼のその問いに、沙智はわけもなくぎくりとする。


「同僚の……とこにお邪魔してる」


「そっか……。そんな仲いい同僚いたんだ? 聞いたことなかったな」


 別にやましいことなんて一つもないけれど、まるで自分が浮気の詮索をされている気分になる。


「ん……。成り行きっていうか、まあ……」


 言葉を濁して誤魔化し、無理やりにその話題を終わらせる。そしてまた落ちた沈黙に痺れを切らし、沙智は自ら口を開いた。


「映美とはいつから?」


 沙智の問いに、今度は相手が動揺する番。


 一瞬だけ目を見開いた彼は、沙智からその視線をそらすとテーブルの一点を見つめる。


「初めて体の関係を持ったのは……今年の四月」


 つい最近だ。


 ほっとするべきか失望するべきかわからずただ無表情で彼を見つめる。


「でもその前から、映美の前の職場と俺の職場の最寄駅が同じだったから、帰りとかに偶然会うことがよくあって……。沙智が遅いって分かってる日とかに食事してた……」


 その頃は二人で会うことに別に深い意味はなかった、と前置きしてから彼は続けた。


「映美が前の職場のことで色々悩んでたから相談乗ったりしてて」


 そうしてなんとなく会うのが当たり前になり、二人の「深い意味はない」逢瀬は彼女の職場が変わってからも続いた。


 そんな日々が数年続く内に恋愛相談にも乗るようになり、前の彼氏のことで悩んで泣く彼女を慰める内についに数ヶ月前に関係を持ってしまったという。


「本当に、ごめん……。こんな風に沙智を裏切るなんて絶対にダメなことだって思ってたんだけど……」


 「不安定な映美を放っておけなかった」と付け足すようにつぶやいて、彼は何かを堪えるように唇を噛み締めた。


 不安定。


 その言葉で彼女の大学時代を思い出す。


 彼女は悪い言い方をすれば非常に「女子らしい」性格だった。恋愛がうまくいかない時や悩みがある時、彼女はいつもわかりやすく不安定だった。


 それでも無理して笑顔を作ったり、無理して元気に振舞ったり、その無理している感が健気にも見えて彼女は一部の男子に人気だった。


『男子ってああいう健気な守りたくなる女子のこと好きだよね』


 大学の頃、なんとなくそうこぼした沙智に彼は言った。


『うーん。まあ。でも俺は沙智みたいにしっかり自立してる子の方が好きだけど』


 そう言った。


 そう言ったのに……。


「もう、いい……」


 もうとっくに諦めきれていると思っていた。


 もうとっくに終わったんだと思っていた。


「もう、いい……」 


 繰り返し言った沙智の頬の上を生暖かい何かが滑り落ちる。


 それを拭うこともせず、沙智は麦茶に浮かぶ溶けだした氷を見つめた。コップの中でゆっくりと回り、コロンと音を立てたそれがひどく滑稽に見える。


 目の前から感じる視線を無視して沙智は荷物を手に取った。


 椅子から立ち上がって彼に一瞥もくれずにリビングのドアへと向かって足早に歩き出す。


 もうこれ以上、ここにいたくない。


 もうこれ以上、彼の顔を見ていられない。


 もうこれ以上、惨めになりたくない。


「沙智、俺、俺は……」


 通り過ぎざまに腕を掴まれる。振りほどこうとしたが強い力で握り直されて進めない。


「……離してっ」

 

「俺は、沙智のことが好きだった! 大切だったんだ……」


 彼の声が震えていることに気づく。見上げると、彼の潤んだ瞳。


 自由になろうと入れていた力が抜け、また何かが沙智の頬を伝う。


 その告白になんの意味があるの?


 結局あなたが選んだのは彼女じゃない。


 これ以上、私に何を求めているの?


 視界が歪んで彼の顔がぼやける。


 心がカラカラで、沙智にはもう彼に差し出せるものも渡せるものも何もない。


 揺れる視界の向こうで、彼の瞳からも何かが伝い落ちるのが見える。


「はなして……」


 弱々しく最後にそう言うと、彼の腕がようやく沙智から離れた。


「さよなら」


 もうこれ以上、彼に言うことは何もない。


 もう一度荷物を抱え直すと、沙智は今度こそリビングを出た。

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