第15話 喧嘩一擲
地下駐車場から外へ出ると雲一つない青空。まぶしさに目を細めながら窓の外を見る。彼がラジオの電源を入れた。
流れてきた今流行りのチューンに、こういう曲聴いてるんだ、とその意外さに心の中で笑う。
青春や純愛を歌うその曲たちに新鮮な気持ちを抱きながら、一方で歌詞がまったく頭に入ってこない。
「元彼ってどんな人?」
一生懸命歌詞に耳を傾けていたら、静かにハンドルを切る彼がこちらを見ずに尋ねてきた。
「それ、今聞く?」
せっかく気を紛らわそうと曲に集中していたというのに。
「今聞かなかったらたぶん一生聞く機会ないじゃん」
それならそれでいいと思うんだけど。言外にそんな思いを込めて息を吐く。
また窓の外に目をやると、くっきりと色のついた景色が音もなく流れていく。流れる景色を見つめながら口を開いた。
「一言で言えば不器用な人、かな」
何をやってもスマートには決まらず、他の人が五分で済ますことを二倍近い時間をかけてやっと終わらすような人。人見知りでちょっと優柔不断で、悪く言ってしまえばダサい人だ。
信号待ちで止まった通りの向こうに手をつないで寄り添い合うカップルを見つける。そこに自分たちの昔を見た気がして、引き込まれるように見つめる。
そういえば初めてのデートの時も、せっかく繋ぎやすいように彼の近くに手を持って行ったのにタイミングをつかめずいつまでもグズグズしていたから結局沙智から手をつないでしまった。
あの時は可愛いと思ったんだけどね。
「あとは任されたことは一生懸命最後までやり通す真面目な人」
大学のゼミで、サークルで、就職してからも、多少人より時間がかかっても課題やプロジェクトには真面目に取り組んでいた。叱責されることがあっても、確実な信頼は得ていたことを知っている。
信号が青になって車が走り出すとカップルの姿がどんどん離れていく。沙智は無意識に彼らの姿を目で追った。
「浮気なんて、できるような人とは思ってなかった……」
ぽつりとつぶやいたタイミングでウィンカーの音が鳴り始める。
「七年も一緒にいたのに私の知らない部分がまだあったみたい」
自嘲的に笑って、ラジオのボリュームをしぼる。永遠の愛を歌う女性歌手の透き通るような声が今の沙智には耳障りだ。
「一番印象的なデートは?」
少し感傷に浸っていた沙智に唐突に投げかけられた問い。
気分が台無しになって彼の横顔を見上げると、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
何だか毒気を抜かれて頭を背もたれにあずける。
「印象的ねー。あ、あれかな。就職してから初めての連休に二人で行った温泉旅行。レンタカー借りて、一泊二日の短い旅行だったけど、ルートは決めずに気ままに、なんて言って寄り道してたら迷っちゃって」
GPSが機能しないような山奥にまで迷い込んでしまったのだ。日本でもまだこんなところがあるのかと驚くと同時に不安が重なりお互いにイライラが募り車の中で大喧嘩。
結局予定よりかなり遅れて宿に到着したときにはホッとして素直に仲直りできた。
「色々あったけど、旅行自体は楽しかったかな……」
思い出そうと思えばいくらでも思い出せる。楽しかったことも腹が立ったことも悲しかったことも何でもない幸せも。
スルスルと音もなく過ぎ去って行った七年間は、まるで今窓の外に見える過ぎ行く景色のよう。
そのまま黙り込んだ沙智に、彼はもうそれ以上何も言わなかった。
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「やっぱり物の仕分けにも時間かかると思うし、どこかで時間潰しといてもらえるかな? 車はここに置いておいて大丈夫だから」
運よくマンションの来客用駐車場に停めることができたはいいが、車の中で彼を待たせておくのはしのびない。幸い駅前までそんなに遠くない立地なので少し歩けば時間を潰せる施設はいくらかある。
駅前の沙智お気に入りのコーヒーショップのカードを手渡すと、彼は「おっけー」と車から降りた。
「終わったら連絡するね」
背の高い彼を見上げると、彼は今朝のように沙智の頭をぽんと軽く撫でた。
「必要だったら呼べよ。すぐ行くから」
そうして笑って駅の方へ歩き去る彼に、だいぶ甘やかしてもらってるなと改めて実感する。
遠くなっていく彼の背中を見送ってからエントランスに向き合うと、沙智は「よし」と低く気合いを入れてマンションへ足を踏み入れた。
ここからは一人だ。
このマンションを出てからそんなに時間は経っていないはずなのに、何だかすでに全てが懐かしい。
エレベーターに乗り込んで流れるように目指す階のボタンを押す。
元彼の親戚が所有主だというこのマンションにはかなり安く住まわせてもらっていた。
家電もほとんどついた破格の家賃で、さすがコネの力と思っていたら住み始めてしばらくしてから実は訳ありの事故物件だったと聞かされギョッとしたことを覚えている。
それが発覚した時は元彼と少しもめたものの、それでも何か変なことが起こることもなく平和に暮らしていた四年間。あんな形で出ていく羽目になるとは思いもしなかった。
エレベーターを出て右。三つドアを越した四つ目。
いつも軽い気持ちで開けていたはずのドアがやけに重厚に感じる。
深く息を吸って、吐いて、沙智は呼び鈴を一度だけ押すとドアノブに手をかけた。
ガチャリと金属音を鳴らしてドアが開く。
「お邪魔します」
数日前まで「ただいま」と言いながらまたいでいた敷居を、今日は他人行儀にまたぐ。
ドアからまっすぐ伸びた短い廊下の向こう、ダイニングの入り口に人影が踊った。
「あ、おか……、いらっしゃい。沙智」
外行きの格好をした元彼が、緊張した面持ちで沙智の顔を見る。
「うん。久しぶり、恭平」
ぎこちなく彼から目をそらし、沙智は軽く下唇を噛んだ。
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